西郷隆盛の人生はどんなものだったのか
今年の大河ドラマの『せごどん』だけど、tazakiくんは観てる?
うーん、最初の方は観てたけど、最近あんまり観てないんだよね〜。もっと史実に詳しかったら面白いのかもしれないけど。
そんなことだろうと思って、今日は西郷隆盛の生涯についておさらいするよ♫
少年時代〜江戸移動まで
生まれ
文政十(一八二七)年十二月七日、西郷隆盛は、鹿児島城下の下加冶屋町で生まれた。
幼名は小吉。一般的には、吉之介という通称だった。
西郷家の祖先は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、南朝の忠臣と言われた菊池武光と伝えられとりもす。
西郷家は、薩摩藩の士分(武士の身分)では、下から二番目の下級藩士じゃった。あまり裕福な家ではなかったのですよ。
郡方勤務
16歳で、郡方書役助という事務官になりました。その5年目には、二才頭(にせがしら)という、、まあ町内の若者の教育長のようなものじゃろうか。
へえ〜、、、若い頃からリーダー格だったんですね。
島津斉彬との出会い
その頃に運命的な出会いをしていますよね♫
うむ。。。当時、次期薩摩藩主と言われていたのは島津斉彬公のことじゃな。
彼は近代的な取り組みなどに積極的な人じゃったから、わしは斉彬公に頻繁に、彼が募集していた意見書を出しちょりました。
そして有難い事にも、斉彬公に気にかけていただき、江戸勤務を命じられもした。今になって思うと、私が世の中に出られるようになったのは、斉彬公のお陰じゃよ。
また、天下の事情を色々と若い頃に知るようになったのも、彼のお陰じゃ。。。
動乱の時代〜奄美大島へ
斉彬の死
そして、時の大老・井伊直弼は勝手な条約を結ぶなど、めちゃくちゃな強権政治じゃった。
斉彬公は反乱計画を立てていたが、病気により急死してしまったのじゃよ。
もう、自殺未遂を起こすほどのショックじゃったよ。。。。
(、、確か、月照という寺院の住職と入水(自殺未遂)したんだわ。当時西郷さんは30歳。でも、ここは詳しくは触れない方が良さそうね。。。詳しくは以下の記事も読んでみて。)
(りょ、了解。。てかタイトルのインパクトよ。)
奄美大島へ
実際に自殺未遂までしたんじゃが、、、実は幸か不幸か、生き残ってしまったのじゃよ。
あの当時こそは自分の運命を恨みもした。まるでワシは抜け殻のような生活を送っていた。。。
そんな時じゃ。薩摩藩から奄美大島へ身を隠すよう、命令が下ったのじゃよ。おっと、正確にはこれは流罪という訳ではない。
奄美大島では、何をしていたんですか?
特にこれといったことはしておらんよ。
強いて言えば、農民たちが、役人たちから酷い搾取にあっておった。
それらを解放させるために、色々しとったのう。よう、扶持米を分け与えて一緒に食ったものじゃ。
(「幕末の優しいジャイアン」というあだ名が浮かんでしまったのは内緒にしとこう。)
そうだったんですか。。。
大久保の活躍
斉彬公に次に実権を握ったのは、島津久光公じゃった。ワシはあまり好かんのじゃがな。
同志とも言える大久保利通が、ワシら若手志士たちの橋渡しになるため、久光と仲良くしてくれとりもうした。
京都へ戻る〜沖永良部島への流罪
西郷の召還
久光に登用された、大久保さんの活躍もあって、西郷さんは薩摩へ連れ戻されたんですよね?
いかにも。しかしどうも、ワシと久光公はどうも反りが合わないようでのう、、、ワシは久光公の上京の計画に反対したのじゃ。
これには大久保も驚いとりもした。大久保の説得でワシが譲る形になりもしたが、、、久光公とはうまくいかんもんじゃと、痛感しちょった。
命令無視で流罪
ワシはこうして、久光の率兵上京計画の戦力として数えられたのじゃ。
しかし、久光公の考える公武融和策は、現実とはかけ離れとった。脱藩浪士や志士、薩摩藩内の急進派藩士たちが、続々と京都、大坂に入り、一触即発の状態じゃった。
ワシはそれを鎮めるために、大阪にいったのじゃよ。久光公が気を損ねることは予想できておったが、ワシには下関でただじっとしておることはできんかったのじゃ。
でもそれが、久光公の怒りを買ってしまったんですよね。怒った久光公からは、捕縛命令が下ったと。。。
そして薩摩藩に戻され、その後が、知っての通り、徳之島、沖永良部島への流罪じゃあ。あの時の生活は過酷を強いられたのう。
西郷の赦免
公武融和策
薩摩藩は会津藩と提携して、京都における勢力回復を目論んだ末に、八月十八日の政変というクーデターを敢行して成功させたんですよね。
左様。
京都から、長州藩士などの尊王攘夷派の勢力を一掃した薩摩藩は、再び久光公が上京し、将軍の徳川家茂公以下、幕府の有力者や有力大名を京都に参集させることに尽力しちょりもした。
久光は再び朝廷と幕府の間を周旋しようと試みたのじゃ。。
そして、久光が推進した公武融和策が行き詰まって、薩摩藩はそれに代わる打開策を模索せざるを得ない状況となった!
藩内から西郷さんを沖永良部島から召還しようということになるんですよね?
西郷さんの味方をしてくれたのは誰だったんですか??
この時にワシの赦免運動を起こしたのは、寺田屋事件の生き残りである柴山竜五郎、三島源兵衛(後の通庸)、福山清蔵たちと聞いちょる。
柴山たちが、大久保や家老の小松帯刀といった久光の重臣たちに、ワシの赦免を久光に願い出てくれとったが、久光公がワシを良く思っちょらんことは大久保たちも知っちょるからのう、簡単にはいかなかったようじゃ。
『大西郷全集』所収の「西郷隆盛伝」を読んだことがあるんだけど、
「久光はくやしげに銀の煙管(きせる)を噛みしめたが、歯痕がついて煙管が瑕(きず)になったと傳へられる」
と書いてあったわ。久光にとって、西郷さんの召還は苦渋の決断だったみたい。
でも、結局は久光としても、薩摩藩の今後の展開を考えると、西郷さんのような人望も、手腕のある人物をこのまま南島に朽ち果てさせて置くことは、出来なかったみたいね♫
ともかく、沖永良部島にいたワシの元に赦免の使者が到着した。
元冶元(一八六四)年二月二十一日、ワシは三十六歳の時、軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係の重職に任命されもした。
軍賦役とは、軍事司令官、諸藩応接係とは、外交官のような役職じゃ。
蛤御門の変(1864)
その後に起きたのが、蛤御門の変(禁門の変)ね。
八月十八日の政変で京を終われた長州藩が、挽回するために出兵したけど、幕府軍に破れて都を戦火にしたとして朝敵の烙印を押されるという失態を犯したの。それに、久坂玄瑞や入江九一といった松下村塾の四天王の二人が戦死してしまう。
西郷さんは、薩摩藩の軍隊を率い、長州藩の軍隊に勝ったのよね。
そうじゃな。
薩長同盟〜江戸城無血開城
1864年の禁門の変では、薩摩軍を指揮して長州(今の山口県)と戦いはしたが、江戸幕府を倒すことをワシは決めちょった。
1866年には、長州藩と仲直りをして薩長同盟を結びもした。
その仲立ち役をしてくれたのが、あの坂本龍馬じゃ。
その後、薩摩藩は徳川家の江戸幕府と戦い、最終的には幕府軍の勝海舟さんとの話し合いにより江戸城を無血開城させました。
勝海舟さんは坂本さんの恩師でもある方で、江戸を戦火から救ったのは彼の功績じゃろうな。
ここでも、薩摩藩をリーダーとして引っ張っていったんですよね!!カッケーっす!!
征韓論の主張〜薩摩へ帰還
明治新政府になり、岩倉や大久保が、岩倉使節団として洋行しちょる間、ワシが政府を預かっておりました。
当時、昔の日本のように鎖国しておった朝鮮に開国を求めようとする征韓論が起こりもした。
なぜ征韓論を唱えたんですか?
ワシが唱えとったというよりは、木戸孝允らの方が熱心じゃったがなあ。
ワシは平和交渉主義じゃったんじゃ。
結局、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに征韓論は退けられもした。その後、明治政府をやめて、ワシは故郷の鹿児島へ帰ったのじゃ。
私学校設立
薩摩に帰って何してたんですか?
鹿児島に私学校(地元の若者を育てる組織)を設立しちょったのじゃ。
血の気の多く、武器を手に立ち上がろうとする若者を、組織で抑えようと思うちょった。
しかし、私学校の規模が大きくなるにつれ、政府もスパイを送り込むなど対策をしてきた。そして生徒たちの一部は、政府の火薬庫を襲撃し武器を奪ってしまった。
「やってしまった」と思っちょった。もうワシは、若者たちが心配でもあったし、運命を共にしてやろうと思ったのじゃ。
西南戦争
もしかして、、西南戦争を起こしたのは、、、その若者たちと一緒に、、、
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この当時、士族たち(江戸時代に武士だった人たち)の不満がとても高まっちょった。
なぜなら、刀を持てるとか、給料(米ですが)をもらえるといった武士の特権を、明治政府に次々と取り上げられたからじゃ。
当然、士族たちは、今の山口県や佐賀県で相次いで反乱を起こしたが、いずれも明治政府に鎮圧されたのじゃった。
ワシに話せるのはここまでじゃ。参考になったかな。
最後には、大久保のやつがワシの自伝を書かせるように仕向けてくれたと聞いちょる。ハッハッハッ!!面白いことしよる!
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最期は、自決したのよね。西南戦争で破れて、城山で。。。
きっと、政府を辞めた時期から、いずれこうなるんだと予想はしていたんじゃないかな?
豪傑で、誠実さを貫く人だったから、自分の正義に従ったんだと思う。そして、生涯を通して立派なリーダーでもあった。かっこいい人だったなあ。
うん・・・。
そうだね♫