知る人ぞ知る日露戦争の殊勲者・金子堅太郎とは

日露戦争の殊勲者・金子堅太郎とは

日露戦争の殊勲者といえば、日本海海戦の東郷平八郎

秋山真之の活躍、明石元二郎の知略などが注目されがちですが、

金子堅太郎という男の活躍はあまり知られていません。

金子堅太郎の生い立ち

嘉永6年2月4日(1853年3月13日)、金子堅太郎は生まれました。

彼は明治維新後、アメリカに留学してハーバード大学のロー・スクールで法律を学びます。その後、伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に関わったことで知られています

金子が日露戦争で重要な役割を果たす

日露戦争では、当時の日本の国力では1年以上、戦争を続けることができない状態です。

開戦当初から、「どのようにこの戦争を終結させるのか」が重要な課題となっており、その為には、アメリカを取り込むことが重要課題です。

その重要な地に、一民間人として送り込まれたのが、金子堅太郎です。

金子がアメリカに送り込まれた

当時の日本は国力も情報力もなく、すべての面においてロシアに圧倒されており、アメリカでも同様の状態です。

金子は、当時の元勲だった伊藤博文の指示で政府役人としてではなく、一民間人としてアメリカに送り込まれます。

金子は過去に8年間アメリカに留学した経験を生かし、ルーズベルト大統領に和平調停に乗り出してもらうよう説得しようとしたのです。

金子はハーバード大学にてセオドア・ルーズベルト(当時の大統領)と同級生でした。とは言っても、ハーバード大学在学中の友人ではなく、卒業後ルーズベルトが弁護士になり日本を訪れた際に親密になりました。

この時の伊藤の指示は、普通に考えると絶対に不可能な事でしたが、結果は、想像以上のものになったのです。

金子の膨大な演説、講演活動が功を奏す

日本国の命運を背負って単身アメリカに渡った金子は、すぐにルーズベルトに頼るのではなく、マスコミに紹介してもらったり、日本を広報する記事を書くなど、膨大な演説、講演活動を続けました。

当時、普通のアメリカ人にとって日本は全く知られていない国でした。その日本を広告するということは、相当な努力があったのでしょう。

アメリカ人やアメリカという国の知識を知ること、金子自身がアメリカ人の好む話題や思考を身につけていたのではないかと思われます。

なぜなら、出身校が同じで長年の知り合いだからという関係性だけでは、ルーズベルト大統領を動かすことはできないはずだからです。

しかし彼はそんな逆境にも負けず、結果として1年でセオドア・ルーズベルト大統領をアメリカ世論ごと動かすことに成功しました。

小村寿太郎がポーツマス条約を締結できた裏には、金子堅太郎の努力があったと言えます。

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