大宝律令や平城京はなぜ作られた?
天武天皇の功績
その後、天武天皇はどんな事によって国の脱皮をはかったの?
まずは都ね。
天武天皇は、唐王朝の都を模した本格的な都城・藤原京の造営に着手、没後の六九四年 に藤原京は完成したの。
日本で初めての唐風都城よ。
平城京ができるまではここが都だったの。
大化の改新で国家体制が整えられて、日本の最初の都市って感じかな。
なんと(710)大きな平城京ってやつの前のやつか。
それと、貴族を序列化するため、八色の姓(やくさのかばね)を定めたかな。
8つの姓が、豪族たちをランク付けするために新たに制定されて、ランク的には、
真人 > 朝臣 > 宿禰 > 忌寸 >道師 > 臣 > 連 > 稲置
という順番になっているわ。
律令国家体制の確立
天武天皇は六八六年に崩御するが、天武天皇の遺志はその妻である持統天皇に受け継がれた。持統天皇は飛鳥浄御原令を施行、庚寅年籍(こういんのねんじゃく)という戸籍を完成させた。
ちなみに、戸籍は出来上がったけど、誤魔化しはあったみたいで、大化の改新以降の時代には脱税も行われていたの
律令の制定
持統天皇がその後、孫である文武天皇に皇位を譲るなか、律令国家体制は仕上がっていく。大宝元年(七〇一)には大宝律令、養老二年(七一八)には養老律令ができあがる。
てか、律令って、つまりは法律ってことだろ?
681年に、天武天皇が律令編纂の詔を出して、大宝律令が完成したのは没後の701年。689年(持統3年6月)に頒布・制定された飛鳥浄御原令は、先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令が初めてである。
ふ〜ん。革新的なことだったんだな。
刑法にあたる6巻に渡る「律(りつ)」は、ほぼ、唐律をそのまま導入したもので、現代の行政法や、民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は、唐令に倣いつつ、日本社会の実情に合わせて改変されて作られたの。
また、本格的な都城として、藤原京を上回る平城京が、和銅年(七一〇)に完成した。 奈良時代が始まったのである。
こうして、日本は国家として体裁を整えていくけど、それは全部、隋・唐帝国という中国王朝の真似事だったのよね。
当時の日本は、ひたすら中国の政治システムや文化を吸収し、中国に追いつこうと必死だったの。
藤原不比等の登場
そして!
日本が律令国家を目指す過程で台頭したのが、藤原不比等!天武天皇の息子である刑部親王と共に、大宝律令の編纂にも大きく関わっているの。
この藤原不比等がめっちゃやり手なんだよな?
そう。
不比等は、天智天皇の片腕だった藤原鎌足の子であり、娘の宮子を文武天皇の后としたの。これがポイントなんだけど、不比等は、律令国家づくりに貢献する一方で、父・鎌足が打倒した蘇我氏と同じく、天皇の外戚という地位を手にしたの。
以後、婚姻と出産によって、天皇家との結びつきを強めていく手法は、その後の藤原氏による権力独占のモデルになっていくのよ。
ちなみに、藤原氏のその後の日本の歴史への影響は、この記事で勉強してね♡
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