鎌倉幕府の滅亡と建武の新政とは
後醍醐天皇はどう動いたのか
鎌倉幕府は、元弘3(1333)年に滅亡する。
滅亡に追い込んだ主役は、後醍醐天皇である。
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歴代天皇のなかでは、異色中の異色、
最も強烈なキャラクターを誇る天皇よ!笑
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
……….変わり者ってワケか。笑
後醍醐天皇が登場するころ、
朝廷では皇統が二つに分かれるという事態が生じていた。
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
なぜそんな事態が起こったの?
お妙院統と大覚寺統であり、鎌倉幕府の助言によって、
両統から交互に天皇を即位させるという両統迭立がつづいていた。
後醍醐天皇は大覚寺統から即位すると、
両統迭立をつづけるのではなく、自分の息子を天皇の座につけたいと考えた。
加えて、平安初期の天皇親政を理想とし、その復活を政治目標とした。
すると、邪魔になるのは鎌倉幕府である。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府の打倒を画策し始める。
二度にわたる倒幕計画は失敗し、隠岐に流された後醍醐天皇であったが、
話はこれで終わらなかった。
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後醍醐天皇が島流しにあったというのはけっこう有名だよね。
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でもしぶとい彼の本領発揮はこれからよ
楠木正成の活躍
流れを変えたのは、河内を根拠地にしていた、後醍醐天皇を奉じた楠木正成である。
楠木正成はまず赤坂城で挙兵、赤坂城落城後は千早城でふたたび挙兵した。
幕府は千早城攻めに大軍を送り込むが、楠木正成の巧みな戦術のまえに苦戦、
千早城をなかなか落とせない。
その間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出する。
足利尊氏が六波羅探題を攻める
幕府軍の思わぬ苦戦は、満天下に幕府の脆さを知らしめることになる。
それが、各地の武士の中にくすぶっていた野心に火をつけた。
全国で反幕府(反北条氏)の機運が高まり、挙兵が始まった。
その流れを決定づけたのは、足利高氏である。
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次期将軍きたーー!
源氏の名族である彼は、幕府の命で関東を出発するが、
京都に向かううちに倒幕を決意、京都の六波羅探題を攻め滅ぼした。
この一撃によって、鎌倉幕府の命運は決した。
一ヶ月後、同じく源氏の血をひく新田義貞が鎌倉を攻め
元弘3(1333)年、北条一族は滅び、鎌倉幕府は滅亡した。
幕府滅亡後、京都に復帰した後醍醐天皇は
天皇親政(建武新政)に着手する。