苗字にも残る藤原氏が日本の歴史に及ぼした大きな影響

日本史

藤原氏の影響力は現代にも残っている

日本の歴史において、特に平安時代には藤原氏の影響力は最も大きいものでした。その藤原氏について迫ります。

藤原を元とする苗字はかなり多い

日本の苗字ランキング(2016年9月時点)を見てみると、

  • 1位 佐藤
  • 5位 伊藤
  • 10位 加藤
  • 19位 斎藤
  • 35位 後藤
  • 36位 近藤

というように、○藤という苗字の人って多いですよね。あなたの周りにも何人かはいるのではないでしょうか。実は筆者もこの中の一人です。

○藤の性の由来は藤原氏

これらの苗字の由来は、基本的には藤原氏の末裔だそうです。平安時代に、朝廷の重要な地位を藤原氏が多くになっていたため、家を区別するために、職業や領地を表す文字と「藤」を組み合わせたと言います。ランキング上位の苗字を実際に調べてみました。

  • 佐藤:佐渡守になった藤原氏や、左衛門尉になった藤原公清など。
  • 伊藤:伊勢国の藤原氏から
  • 加藤:加賀の藤原氏から
  • 斎藤:藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)となったことから
  • 後藤:藤原利仁(としひと)の流れをくむ公則(きみのり)が備後守となったことから
  • 近藤:近江の藤原氏から

確かに、全部藤原氏ですね。こうやって自分の苗字のルーツをたどってみるのも面白いですね。

その祖先は藤原鎌足から始まる

中臣鎌足が大化の改新の功績により、天智天皇から藤原姓を賜ったのが始まりと言われています。

中臣鎌足が中大兄皇子から藤原姓を賜ったことが始まり

中臣鎌足といえば、645年に「乙巳の変」にて中大兄皇子と蘇我氏を倒し、その後の政治改革「大化の改新」に貢献した人物です。

鎌足が56歳で病になり、中大兄皇子が見舞いに行き、大臣の座と「藤原」の姓を授けました。この時から藤原鎌足となり、藤原鎌足として死去します。そして後を継いだ藤原不比等が藤原の名を発展させていきます。

不比等の活躍は藤原姓があってこそのものだった

藤原不比等は大宝律令の編纂に関与し、養老律令の編纂にも関わりますが、720年に、施行を前にして病死します。しかし、不比等と、その息子の藤原4兄弟によって藤原氏繁栄の基盤が固められていきました。

不比等の活躍は、この「藤原姓」なくしてはなかったとも言われます。「中臣」姓は、古来から神官を務め、天皇の側で神事に関わる家系であり、政治に関わる家系ではなかったのです。中臣性は古代の氏姓制度では「連(むらじ)」であり、その上には「臣(おみ)」がありました。中臣性のままではよほどの人材が続かなければ朝廷で長く権力を持つことはできませんでした。

しかし、「藤原」姓と大臣の座を得ました。これが政治の中枢を支える資格と言えます。ここが藤原氏の台頭のスタートと言えます。

藤原氏の発展と現代まで

不比等の働きにより、藤原姓は鎌足の直系のみが名乗ることになりました。これ以降の「藤原氏」はみな不比等の子孫であると言えます。

摂関政治

藤原氏の全盛期と言えば400年の平安時代の摂関政治です。これはよく聞きますね。摂政(天皇が幼い時)、及び関白(成人した天皇の補佐)の地位にあるものが天皇の政治の代理または補佐をすることです。

特に藤原北家は、摂政と関白の地位をほぼ独占していました。摂政と関白が天皇の代わりに政治を仕切った時代を摂関政治と言います。

藤原の良房が就任して以来、藤原氏がこの地位を独占することになります。
長い間、天皇に次ぐ日本の無敵の二番手として君臨し続けたのが藤原氏なのです!考えてみるとすごいですね。。。

巧みな婚姻策

なぜ政治を独占できたかというと、娘を天皇に嫁がせる婚姻策により天皇の外戚となってきたからです。娘と天皇の間に子供が生まれればその子が皇太子になり、大人になれば天皇になり、藤原氏が大きな影響を与えることができます。

子供が天皇になれば、政治を取り仕切ることはできないので、外戚である藤原氏が摂政か関白になり政治を代わりに行います。この外戚政治の始まりは、藤原不比等が娘を天皇に嫁がせたことで、その手法は踏襲されました。他の貴族が対等してくると、罠を仕掛けて左遷させるなどの手法を行い、「学問の神様」と呼ばれる菅原道真も左遷された一人です。

長く続いた摂関政治の終わり

藤原氏の栄華は、藤原良房から、基経、時平、忠平、兼家、道隆、道長、頼通と続きます。この栄華に終わりが見えたのは藤原頼通の末期からです。頼通が天皇家に送った娘との間に子供が産まれず、藤原氏は外戚の地位を失いました。

藤原氏が外戚の地位を失ったところで、天皇家の逆襲が始まり、院政の時代が始まったことで、藤原氏の摂関政治は終わりを迎えました。無敵の外戚戦略も、子宝に恵まれないという運命には逆らえなかったようです。

本能寺の変

貴族政治の中心にいた平安時代から、鎌倉時代では武家政治の時代に変わりました。平安時代ほどではありませんが、それでも藤原氏の影響は続きます。大きくなりすぎた藤原氏の摂政・関白の地位は、近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家の五摂家に分かれました。この中で最も影響力を持っていたのが近衛家です。

本能寺の変と言えば、織田信長に対する、明智光秀の謀反です。信長は朝廷の権威をないがしろにしていましたが、家臣の明智は朝廷を重んじる考えを持っていました。この明智の裏には近衛前久(当時藤原氏の最高権力者)がいたのではないか?という説があります。

近衛文麿は戦争を避けるために東條陸相と対立後総辞職

近衛家と聞いてまず名前が挙がるのは、太平洋戦争直前に3度内閣総理大臣に任命された近衛文麿です。朝廷は明治維新で解体されましたが、藤原家ほどの名家は一定の権力を持ち続けました。

近衛文麿第3次内閣では、戦争を避けるために奮闘しますが、強硬論を推進する陸軍の東条英機と対立します。対米開戦を巡って総辞職→東條内閣が成立し、日米開戦へと向かいます。

細川護煕氏も近衛家の子孫だった

第79代内閣総理大臣、細川護煕氏は近衛文麿の孫です。55年体制の崩壊と共に総理の座につきました。内閣発足直後の世論調査では、内閣支持率が70%を超える驚異の支持率でした。衆院選への小選挙区制導入、政党助成金制度の創設などを実現します。

その後は政権を支えていた新生党の小沢一郎や官房長官の武村との対立、佐川急便からの借入金の未返済問題などもあり、1年に満たない短命内閣に終わります。

まとめ

さて、現代の政治まで続きましたが、藤原氏の系譜を引き継ぐ歴史のざっくりとしたまとめでした!大化の改新〜55年体制崩壊の細川内閣まで、藤原氏の影響力の大きさを感じます。