大阪夏の陣後の真田家はどうなったのか
真田幸村と言えば。
2016年の大河ドラマ『真田丸』においてもその知名度を上げました。
赤い鎧がトレードマークでもある戦国武将。真田幸村と言えば大阪夏の陣!しかしその後どうなったのかはあまり知られていません。その後に迫ります。
大阪夏の陣とは
大坂夏の陣は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦です。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣から成る。大坂の役とも呼ばれる。
この戦いで、真田幸村は、豊臣軍の中心的存在として参加して活躍しています。
真田幸村の大阪夏の陣・冬の陣のその後
最後には敗れたとはいえ、1614(慶長19)年からの大坂の陣で大活躍して名を挙げたのが真田幸村である。
冬の陣では真田丸にこもって徳川方を散々に悩まし、翌年の夏の陣では徳川本陣近くまで攻め込み、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。
実際、真田軍の勢いに、家康は自害を覚悟した瞬間もあったと伝えられている。
しかし、最終的には、数で勝る徳川軍の反撃を受けて敗退。
安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、兵士の傷の手当てをしているところを襲われ、自ら首を差し出した。享年49だった。
真田家嫡男の系統は途絶える
幸村には、正室と3人の側室がおり、4人の男の子があった。
関係ないけど、今考えたら正室に側室3人いるって奥さん4人ってことだろ?
いいなあ。。。笑
はい無視!笑
嫡男の幸昌(大助という名でも知られる)は大坂夏の陣に出陣若いながらも奮闘するが、大坂城落城を目の当たりにする。
将来ある身として逃亡を勧められるが、主君・豊臣秀頼自害後、後を追って自刃した。享年は13とも16とも伝えられる。むろん、子どもはいなかった。
仙台真田家として受け継がれている
これによって、真田家嫡男の系統は絶えたが、当時3歳だった二男の大八が辛うじて逃げ延びる。
そして、伊達家重臣の一人である片倉重長に保護され「真田守信」と称した。
のちに、この片倉重長は大八の姉で三女の阿梅と結婚する。
徳川幕府からの守信に関する調査があったときも、伊達家や片倉家は偽証までして守信を護ったという。
もし伊達や片倉が偽装してくれなかったら真田家は途絶えていたかもしれないね。
てか、真田って苗字現代ではあまり聞いたことないけど実際いたらかっこよくないか?
そのさい、幕府を欺くため、守信は「片倉守信」という名の仙台藩士と称していた。
再び、真田姓を名乗ることが許されたのは、守信の子辰信の時代。
幸村の四人の男の子のうちでも、真田姓を名乗るのはこの守信の系統だけで、現在も「仙台真田家」として受け継がれている。
三男の幸信は、大坂夏の陣の後に生まれたが、真田姓を名乗らず「三好」と称した。
その後、姉で五女の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主・岩城宣隆に引き取られたとみられている。
四男の之親については、 詳しいことがわかっていない。