なぜ日本一派手な桃山文化が生まれた?
豊臣秀吉の時代は桃山時代と呼ばれ、
同時代の文化は桃山文化の名で知られる。
桃山とは秀吉の居城があった伏見の地名である。
その文化は、日本文化の中ではきわめて異色なものだった。
桃山文化の特徴の代表文化
それまでの文化は、仏教文化を背景とするものがほとんどだったが、
桃山文化では仏教色が薄れ、格別豪華で派手なものになったのだ。
秀吉は派手好きだったんだよね〜
元々が農民の出だから、そういうのに憧れたんかなあ?
それは、秀吉の派手好きな性格に由来するとともに、
時代の風潮を繁栄したものでもあった。
戦国大名や侍は、明日をも知れぬ命と覚悟する一方、
生あるうちは華麗、絢爛でありたいという美意識を抱いた。
そのような、命知らずの成り上がり者たちの美意識が、
派手さや豪華さを求めたのだ。
豊かな財力による城郭建築
大阪城。美しいなあ〜!
加えて、当時の日本は財力が豊かだった。
石見銀山で多量の銀が採掘され、
佐渡などの金山も豊かな産出量を誇っていた。
こちらは白鷺城だね
また、西国の諸大名や商人は、
南蛮貿易によって大きな富を得ていた。
その富と美意識から生まれたのが、巨大な城郭である。
大阪城や姫路城は、とても豪華な外観ですが、
桃山文化を象徴するような建築と言えそうです。
狩野派と豪華絢爛な障壁画
安土桃山時代は狩野永徳、
城の天守閣や御殿は、華麗に内装された。
室内の障壁画は、江戸時代初期は狩野探幽に代表される
狩野派によって描かれ、海北友松や長谷川等伯らがつづいた。
千利休の茶の湯
室町時代に盛んになった茶道は、
桃山時代、千利休によって完成された。
茶道は、織田信長や豊臣秀吉らに好まれ、富裕な町衆の人気も集めた。
ただ、千利休は後に豊臣秀吉、石田三成らと対立し、切腹に追い込まれた。
しかし秀吉は派手な黄金の茶室を好みました。
そして千利休は秀吉により、
のちに死に追いやられたと言われています。
南蛮文化の影響
桃山文化のもう一つの特徴は、
ヨーロッパ文化(南蛮文化)の影響を大きく受けていた ことである。
カステラやタバコは、この時代にもたらされている。
このように、
食文化にも、けっこう影響を与えています。