徳川幕府の鎖国の狙いや意図は?
前の話はこちら
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豊臣政権時代から徳川幕府の初期にかけて、
いわゆる「鎖国」政策が進められていきます。
鎖国はいつから行われたのか
日本はある日突然、国を閉ざしたわけではなく、
52年間にわたって、
さまざまな消極的な外交政策を積み重ねることによって、
徐々にに国の門戸を閉ざしていった。
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一気に閉鎖的になった訳ではないんだね
バテレン追放令
まずは、天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州平定の折りに
バテレン(宣教師)追放令を発する。
九州地方でキリシタンが驚くほどに増え、
力をつけていたことを、秀吉自身が目のあたりにしたことが
その動機になったとみられる。
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秀吉がバテレン追放をした理由はこちらの記事でも
徳川幕府の時代になると、家康は貿易を熱心に進め、
慶長9(1604)年から朱印船貿易をスタートさせている。
海外渡航を許可する朱印状を持った船のみが、
貿易できるという制度を設けて、幕府の収入の柱にしようとしたのだ。
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朱印状ってなんなん?
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貿易するためのパスポートみたいなものかな。
その一方で、幕府は慶長17(1612)年、
直轄領内にキリスト教の禁教令を出す。
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それもかなり限定的にしか貿易してないんよね
その頃から、貿易制限も始まって、
中国船以外の外国船は、平戸、長崎にしか入港できなくなり、
やがて幕府はスペイン船の来航を禁じた。
島原の乱
鎖国を完成させるきっかけとなったのは、
1637(寛永14)年に起きた島原の乱である。
乱の中心にいたのは、元キリスト教徒らだった。
以後、幕府は国内のキリスト教の絶滅を目指すとともに、
ポルトガル船の来航を禁じた。
ヨーロッパ国で唯一交易を許されるのはオランダのみとなり
長崎の出島にはオランダ商館がつくられた。
ただし、オランダ人と役人などを除く日本人との交流は禁じられ、
日本は海外からの人を閉ざした状態となった。
こうして1639年には江戸幕府は3代目将軍である徳川家光の指令により、
外国との貿易や交流を禁止して日本を海外から閉ざしていた。
これで鎖国が完成したわけです。
1587年に秀吉がバテレン追放令をしき、
1639年に鎖国が完成するまでに、52年かかっているのである。
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島原の乱で活躍した天草四郎についての記事はこちら
なぜ鎖国体制を取ろうとしたのか
鎖国に到るまでの経緯はわかりました。
ではなぜ世の中は鎖国の流れになったのでしょうか?
上にいた秀吉や家康は、どんな考えを持って、
外国を避ける思想を持ったのでしょうか。
キリスト教の考えを警戒したから
こうして、日本がいわゆる
鎖国体制をとった理由は様々にあるが、
その一つはキリスト教に対する警戒心からである。
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キリスト教が幕府体制を揺るがすことにビビったんだな。
外様大名が貿易で利益を得るのを警戒したから
また、家康が当初もくろんだ貿易の拡大は徳川幕府に富をもたらしたが、
それは同時に幕府を脅かすものでもあった。
もし西日本の外様大名が貿易によって巨利を得れば、
それは打倒徳川幕府への資金源になりかねない。
そこで、幕府は西日本の大名を窮乏化させるため、
あえて自らの利益を捨ててでも、貿易統制に乗り出したのだ。
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今度は大名たちが儲けないように、か。
貿易の実態
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でも隠れて貿易してた藩もいたのよ。
とはいえ、長崎では中国、オランダとの交易が行われ
対馬藩は朝鮮半島の釜山に倭館を置いて朝鮮との交易を営んでいた。
薩摩藩は、幕府の黙認のもと、琉球王国に侵攻して支配下に置き、琉球経由での中国貿易を行った。
さらに、北海道では、松前藩がアイヌを通して外国と交易していた。
この、長崎、対馬、薩摩、松前の各藩を海外交渉窓口と定め、それらを「四口(よんくち)と呼びました。
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