幕末前夜からの出来事まとめ
私みたいな歴女が流行ったり、ゲームや漫画でも歴史の人気は健在ですが、歴史のファンの中で多いので「幕末ファン」ですね。
歴史モノって、背景をしっかり知って入ればいるほど楽しめるという一面もあるよなと思ったので、まだ幕末初心者だよって人のために、(そして自分自身の復習のためにも、)ざっくり幕末基礎知識をまとめてみました。
天保の改革
幕末史といえばペリー黒船来航の幕開けのイメージですが、1830年からの天保の時代は、藩幕体制がきしみ始めた時代でした。
天保の飢饉に無対策〜天保の改革
天保 3 年(1832年)から、天保の飢饉により大凶作が続いたにも関わらず、幕府は全くの無対策で、大阪では大商人が米を買い占め大儲け、庶民たちは苦しみました。
そこで起こったのが大阪町奉行所の、大塩平八郎の乱で、貧乏な庶民たちを救済するため、買い占めをした大商人の屋敷を襲撃しました。
これをきっかけとし、各地でも乱が起こるような不穏な世の中になり、老中・水野忠邦が寛政の改革を模倣した天保の改革を起こします。
倹約を唱え、風俗面の統制、出版物の検閲などをしていました。
異国船打ち払いから、薪水給与令へ
1825年から幕府は異国船打払令を出していましたが、大国だと思っていた清が、アヘン戦争で西洋のイギリスに敗れたことに恐れをなし取り下げます。
新たな政策は一変して、漂着した異国船に食糧や燃料を支援することを許可するという薪水給与令でした。その他の異国船への対策もできぬまま、ペリー来航を迎えます。
ペリー来航から開国まで
2つの不平等条約
1853年、アメリカのペリー提督が率いる黒船4隻が浦賀に来航し、開国を要求する国書を受けます。
正式な外交使節が遂に到来し、未だに鎖国を基本方針とし、新たな対策ができていなかった幕府は慌てました。
結局、ペリーに要求されるがまま、日米和親条約を結ぶことになります。その次には正式な貿易を求める通商条約の締結を求められます。
国論は二分された中、独断で締結
通商条約に対して、朝廷とその周りでは反対する勢力が現れ、開国派と反対派の対立、政争が起こります。
そんな時に、大老の座についた井伊直弼は、1858年に独断で日米通称修好条約を締結してしまいます。朝廷の勅許を得ないまま締結したことに対して非難の声が高まります。
安政の大獄
それに対し井伊直弼は、反対する大名や公家を次々と隠居に追い込み、その部下の武士たちも投獄や処刑をしてしまいます。これが安政の大獄と呼ばれます。この時にかの吉田松陰も処刑されています。
桜田門外の変
安政の大獄により、それまで一線を超えていなかった多くの志士たちが憤激することになります。水戸の志士たちは江戸城の桜田門外で井伊直弼を襲撃しました。
白昼堂々と幕府の最高権力者が殺害されたと言う事実は、幕府の権威をさらに落とすことになりました。
公武合体〜尊王攘夷運動
公武合体政策
最高権力者の井伊直弼を失った幕府では、14代将軍・家茂が、朝廷との妥協を図るために孝明天皇の妹である和宮を夫人に迎えました。有力大名たちもこれを支持します。
尊王攘夷運動
諸藩の武士たちはさらに激化し、過激な尊王攘夷運動を信奉した結果、開国派を思われる人物たちを次々と暗殺しました。
尊皇派の志士たちの多くは京都に集まっていましたが、その中で勢力争いが起きました。吉田松陰に師事した長州の久坂玄瑞らが、朝廷を独占するようになり、薩摩藩と京都守護職にある会津藩と結託します。
八月十八日の政変では、その薩摩藩と会津藩が、長州藩と、それに同調する公家らを京都から追放しました。
長州藩は反撃しようとしますが、京都の池田屋で新撰組に襲撃され多くの有力な志士たちが戦死します。その後、御所に近づき薩摩藩と会津藩と衝突します。これが禁門の変(蛤門の変)です。長州藩は完敗し久坂玄瑞もは自刃。この一連の戦いで、長州藩の過激な尊王攘夷派は壊滅しました。
大政奉還
尊王攘夷に代わり浮上した路線が、開国倒幕の思想です。対外国戦争を経験した薩摩藩と長州藩がきっかけです。
対外戦争
1862年、薩摩藩士が生麦村でイギリス人を斬殺する事件(生麦事件)で、薩摩藩とイギリスは対立し、1863年の薩英戦争に発展します。
イギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩摩藩と砲撃戦となります。互いに損害も大きく、和解となりましたが、薩摩藩は列強の軍事力を体験し攘夷路線を捨てました。
一方、長州藩は攘夷を実行し、外国船に砲撃していたため、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国艦隊から報復を受け、完敗します(四国艦隊下関砲撃事件)。これで攘夷が不可能であることを悟りました。
幕府の長州征伐
長州藩が禁門の変、四国艦隊でも連敗し、虫の息状態になっていたところを、幕府は征討を図ります。その長州藩の危機を救ったのが西郷隆盛です。幕府が息を吹き返してしまうと考え、政治工作で長州征伐を中止にさせました。
征伐を免れた長州藩では、高杉晋作や桂小五郎らの改革勢力が実権を握り始め、兵学者の大村益次郎も登用して軍事改革を行います。
さらに、土佐の坂本龍馬の斡旋により薩摩と長州の同盟が結ばれました。坂本の活躍と薩摩援助もあり、長州藩は、幕府の第二回長州征伐を迎え撃ち連戦連勝しました!
西郷隆盛は幕府の軍事の甘さを目の当たりにし、倒幕を構想します。
大政奉還〜王政復古の大号令
長州征伐に失敗した幕府では、家茂が疫没し、徳川慶喜が15代将軍になりましたが、流れはもはや変えられず、大政奉還を申し出ました。
西郷隆盛や、公家の岩倉具視らは、徳川家は排除すべきと考え、王政復古の大号令を発した後、小御所会議で徳川家を威圧、圧倒しました。
これで徳川家の権力は完全に断たれることになりました。
まとめ
最後まで読んでいただきありがとうございます!
幕末には新たな時代を切り開いた若いヒーローが多く存在するので、小説や漫画を読んでいても気持ちが良いものです。
先行き不透明で、倦怠感漂う現代だからこそ、人は幕末時代に「何か」を求めるのではないか。。なんて考えています。
時代を動かす若者たちが、立ち上がる時かもしれないですね。
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