どのような戦いが繰り広げられたのか?
平清盛の台頭で、彼が太政大臣になるも、貴族的な外戚戦略が嫌われ、平氏政権に反発する貴族や武士は、やがて打倒平氏を画策するようになったのよ。
治承4年(1180)年には、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)と源頼政が挙兵するが、これはあっさり鎮圧される。
ただし、それは戦乱の序曲にすぎなかった。そこから治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱、俗にいう源平合戦が始まる。
源平合戦が始まる
反平家勢力の主役となったのは、源頼朝である。
源頼朝の台頭
源頼朝は、前九年の役・後三年の役で、東国武士の声望を集めた源義家の直系の子孫。
全国の源氏を代表する人物であり、
打倒平氏のためにかつぐには、棟梁として最もふさわしい血筋の人物だった。
以仁王の平氏打倒の命は、頼朝の元にも届いていた。
打倒平氏!
伊豆島流しから帰ってきました。
当時、源頼朝は伊豆に配流の身であったが、
妻(北条政子)の父・北条時政の支援を得て挙兵する。
緒戦の石橋山の戦いで敗れ逃亡するが、
その敗北で源頼朝の声望は落ちるどころ か、兵を挙げたことで一気に高まる。
そしてさらに仲間が集まりました。
源頼朝のもとには、多数の東国武士が参集し、
頼朝は大軍を率いて鎌倉にはいる。その後、有名な富士川の戦いで平氏の軍勢を破り、東国支配の基盤を固めた。
平氏にとって不運だったのは、地盤としていた西日本で、
折悪しく大飢饉が発生、動員が思うにまかせなかったことだ。
さらに、大黒柱の平清盛が養和元(1181)年、病死してしまう。
源頼朝以外の強敵たち
そして平氏の敵は、源頼朝だけではなかった。
頼朝の従兄弟である源義仲(木曽義仲)が信濃で挙兵し、
倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破り、平氏は木曽義仲に都を明け渡さざるをえなかった。
しかし、木曽義仲の軍は京都で乱暴狼藉を働くなど、都を統治する力がなかった。
後白河法皇は義仲を排除するため、源義経・範頼に平氏追討の院宣が下った。
頼朝は弟の範頼と義経を京都に進軍させ、木曽義仲を敗死させた。
源義経による活躍と平氏の滅亡
このあと、源義経による平氏討伐戦が始まる。義経は一の谷の戦い、屋島の戦いで連勝 し、平氏を追い詰める。
一ノ谷の戦い
一ノ谷の戦いでは、義経は精鋭70騎を率いて人馬一体のいわゆる「逆落とし」奇襲作戦を実行し、崖を駆け下り、一ノ谷の平氏の砦を急襲!あちこちで火を放った。
平氏は大混乱に陥り、屋島に落ちていった。
屋島の戦いと那須与一
屋島の戦いといえば、『平家物語』の名場面、「扇の的」である。
戦いが夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探すよう命じる。
推薦された下野国の那須十郎はケガがいえず、その弟ならばと那須与一が推薦される。与一はやむなくこれを引き受ける。
「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神、願はくはあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。
これを射損ずる物ならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」(平家物語)
外したら自害するほどの覚悟を持って射た与一は、見事、的を当てた。
文治元(1185)年、平氏は最後の戦いとなる壇ノ浦の戦いに存亡を賭けるが、
ここでも義経の前に敗北、ついに滅亡した。
幼い安徳天皇も、壇ノ浦の海の中に平氏とともに没した。