間宮林蔵の北方探査
金権主義を批判された田沼意次だが、
彼の政策は、その後の日本の領土問題に大きな影響をおよぼしている。
田沼が、蝦夷地を開拓する構想を抱き、北辺探査に力を入れたからだ。
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北方領土は重要な問題。
田沼意次が目をつけた北方探検の歴史
田沼の目を北方に向かわせたのは
仙台藩の医師・工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』 という書物だった。
北方探検で活躍した人物たち
工藤平助はこの鎖国下の時代に、長崎のオランダ人と交友のある
蘭学者などから入ってくるロシアの情報をまとめ、
老中・田沼意次に提出、江戸期の海防論の先駆者となった。
この工藤平助から蘭学の知識、国防論の刺激を受け兄事し『海国兵談』を著したのが林子平だ。
同書では、赤蝦夷(ロシア)との交易や蝦夷地の可能性が説かれ、
その主張に触発された田沼は、最上徳内らを蝦夷地に派遣する。
![彩葉](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2018/07/iroha.png)
江戸時代は樺太、千島列島を含む北海道の辺りを蝦夷地(えぞち)を呼んでいたんですね。
最上は千島までを踏破、最上の後継者、近藤重蔵も探査に活躍し、
その流れは間宮林蔵に受け継がれる。
樺太の発見
間宮は、樺太から海峡を渡って沿海州に達する。
そのさい、間宮は樺太が島であることを確認したが、
それはロシアすら知らない地理的発見だったので、
後世、樺太と沿海州間の海峡には間宮海峡という名がついた。
なお、その間宮が測量を学んだ人物が、伊能忠敬である。
伊能は日本全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させている。
田沼時代の蘭学の発展
また、田沼の時代は、蘭学が興隆した時代でもあった。
すでに、徳川吉宗の時代に蘭学は導入されはじめていたが、
田沼の時代に開花、隆盛期を迎える。
医者の前野良沢と杉田玄白は、解剖書『ターヘル=アナトミア』を辞書抜きで翻訳し、
『解体新書』として出版した。
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これは有名だよね。それまでの医学書よりも大幅にリアルにバージョンアップ!
![杉田玄白](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2018/06/sugita_genpaku.png)
苦労して書きました。
それが一つの突破口となって、蘭学は日本人にとって比較的学びやすい学問になる。
以後、西洋の学問・文化が蘭学を通じて、知識人には知られるようになる。
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
だんだん学問が発達してゆくのか〜!!
蘭学塾も生まれ、大坂では緒方洪庵が適塾を開く。
後に緒方門下から、福沢諭吉、大村益次郎ら、
幕末・明治維新に活躍する者が現れてくる。