田沼意次時代と、寛政の改革

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田沼意次が手がけたのは?

前の話
享保の改革までの幕府経済背景とその内容
米将軍・徳川吉宗は何を改革し、何につまずいたのか?前の話はこちら享保の改革とは元禄時代が終わると、1716(享保元)年、紀州藩主だった徳川吉宗が八代将軍に就任。まもなく、財政再建を中心に幕政改革に着手。まもなく先例にとらわれない改革を次々と

 

徳川吉宗による享保の改革が一応の成功を収め、

幕府の財政は一時的に好転するものの、ふたたび財政は行き詰まった。

そこで新たな改革者として登場したのが、田沼意次である。

 

田沼政策:米経済→貨幣経済への移行

田沼は、吉宗の年貢増大策や米価の釣り上げ策に限界を感じていた。

tazaki
tazaki

米中心の経済から貨幣の経済に変わり始めた時代なんだな。

すでに米経済の時代ではなく、発展し続ける貨幣経済に合わせた経済政策が必要であることに、田沼は気づいていたのだ。

経済活動を活発にし、そこに新たな財源を求めれば、

米価に関係なく、幕府の収入は増えていくというわけである。

新田開発

田沼がとった経済活性化策のひとつは、一種の公共事業である。

下総の印旛沼や手賀沼を埋め立てて新田を開発するという

大型プロジェクトを手がけたのだ。

 

吉宗も新田開発を奨励したが、

田沼は開発資金を年責によらず、大商人の財力に求めた。

それが、従来の幕政との違いである。

蝦夷地にも目をつけるも、天災と賄賂で失脚

さらに、田沼は蝦夷地にも目をつけた。

当時、蝦夷はまったく未開発だったので、

田沼は大規模開発を行い経済を振興させようともくろんだ。

 

ところが、田沼の積極的な経済政策は、

他の幕閣の納得を得られるものではなかった。

そこに天災による飢饉、賄賂政治に対する批判も加わり

田沼は改革の成果をあげられないままに失脚した。

彩葉
彩葉

蝦夷地の開発はもう少し先で紹介します。

寛政の改革

代わって、新たな改革者として登場したのは、老中・松平定信である。

松平定信は、享保の改革を成功させた徳川吉宗の孫にあたる。

 

定信は祖父・吉宗の改革を理想とし、田沼時代の政治を悪と断罪した。

定信は、田沼派の者たちを一掃し、田沼時代の逆を行く寛政の改革を断行した。

彩葉
彩葉

松平定信は、祖父の吉宗と同じく節約!倹約!の政策です。

tazaki
tazaki

生活キビシー!!!

それは、吉宗の改革以上に禁欲的であり、

貨幣経済を悪として、人の自由や楽しみを束縛するものだった。

彼は、大名から農民に至るまで徹底的な倹約を求めた。

 

また、棄指令を出し、旗本や御家人が、

金貸しである札差から借りた金を返済しなくてもよいとした。

それは、旗本や御家人の困窮を救うための策だったが、

むろん経済的な混乱を招くことになった。

tazaki
tazaki

借りた金返さなく良いとか、とんでもない世界だよな〜

寛政の改革は、倹約という面では一定の成果をあげたが、

それは江戸の経済を窒息させるだけに終わった。

結局、寛政の改革は多方面からの反発を招き六年で挫折した。

 

次の話
北辺探査と蘭学隆盛の時代
間宮林蔵の北方探査金権主義を批判された田沼意次だが、彼の政策は、その後の日本の領土問題に大きな影響をおよぼしている。田沼が、蝦夷地を開拓する構想を抱き、北辺探査に力を入れたからだ。tazaki北方領土は重要な問題。田沼意次が目をつけた北方探
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