田沼意次が手がけたのは?
徳川吉宗による享保の改革が一応の成功を収め、
幕府の財政は一時的に好転するものの、ふたたび財政は行き詰まった。
そこで新たな改革者として登場したのが、田沼意次である。
田沼政策:米経済→貨幣経済への移行
田沼は、吉宗の年貢増大策や米価の釣り上げ策に限界を感じていた。
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
米中心の経済から貨幣の経済に変わり始めた時代なんだな。
すでに米経済の時代ではなく、発展し続ける貨幣経済に合わせた経済政策が必要であることに、田沼は気づいていたのだ。
経済活動を活発にし、そこに新たな財源を求めれば、
米価に関係なく、幕府の収入は増えていくというわけである。
新田開発
田沼がとった経済活性化策のひとつは、一種の公共事業である。
下総の印旛沼や手賀沼を埋め立てて新田を開発するという
大型プロジェクトを手がけたのだ。
吉宗も新田開発を奨励したが、
田沼は開発資金を年責によらず、大商人の財力に求めた。
それが、従来の幕政との違いである。
蝦夷地にも目をつけるも、天災と賄賂で失脚
さらに、田沼は蝦夷地にも目をつけた。
当時、蝦夷はまったく未開発だったので、
田沼は大規模開発を行い経済を振興させようともくろんだ。
ところが、田沼の積極的な経済政策は、
他の幕閣の納得を得られるものではなかった。
そこに天災による飢饉、賄賂政治に対する批判も加わり
田沼は改革の成果をあげられないままに失脚した。
![彩葉](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2018/07/iroha.png)
蝦夷地の開発はもう少し先で紹介します。
寛政の改革
代わって、新たな改革者として登場したのは、老中・松平定信である。
松平定信は、享保の改革を成功させた徳川吉宗の孫にあたる。
定信は祖父・吉宗の改革を理想とし、田沼時代の政治を悪と断罪した。
定信は、田沼派の者たちを一掃し、田沼時代の逆を行く寛政の改革を断行した。
![彩葉](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2018/07/iroha.png)
松平定信は、祖父の吉宗と同じく節約!倹約!の政策です。
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
生活キビシー!!!
それは、吉宗の改革以上に禁欲的であり、
貨幣経済を悪として、人の自由や楽しみを束縛するものだった。
彼は、大名から農民に至るまで徹底的な倹約を求めた。
また、棄指令を出し、旗本や御家人が、
金貸しである札差から借りた金を返済しなくてもよいとした。
それは、旗本や御家人の困窮を救うための策だったが、
むろん経済的な混乱を招くことになった。
![tazaki](https://history-wisdom.net/wp-content/uploads/2017/12/tazaki.png)
借りた金返さなく良いとか、とんでもない世界だよな〜
寛政の改革は、倹約という面では一定の成果をあげたが、
それは江戸の経済を窒息させるだけに終わった。
結局、寛政の改革は多方面からの反発を招き六年で挫折した。