最強の帝国を相手になぜ負けなかった?
鎌倉時代最大の事件といえば、
モンゴル帝国軍の襲来、いわゆる元寇です。
どうようにして当時世界最強の国から
日本は助かったのでしょうか?
元と言う国
13世紀後半、モンゴル帝国はユーラシア大陸に大帝国を築いた。
東アジアでは中国北部にあった金帝国を滅亡させ、
朝鮮半島にたびたび侵攻、高麗王朝を服属させた。
フビライ・ハン率いるモンゴル(中国大陸での国号は「元」)は、
高麗を通じて日本にも朝貢を求めた。
一方、鎌倉幕府には外交経験がほとんどなく、モンゴルに対して頑な姿勢を取り続ける。
時の執権・北条時宗は、モンゴルの国書を無視し、返書すら送らなかった。
モンゴルと鎌倉幕府の間には交渉というものがなく、仲介にあたった高麗は困惑するばかりだった。
小野妹子が隋に行った時も隋の皇帝・煬帝を怒らせてたよね。日本って昔から閉鎖的な文化は変わらなかったのではないでしょうか。島国だからかな。
やがて、その高麗も日本に領土的野心を持ちはじめ、
フビライは日本征討を決意する。
一方、北条時宗は北九州の守りを固めた。
モンゴル帝国は、文永2(1274)年と弘安4(1282)年の二度に渡って襲来した。
それぞれの元号から、文永の役、弘安の役と呼ばれる。
文永の役
文永の役では、高麗兵がモンゴル軍の主力となり、総勢3万人。
モンゴルは上陸して大勝利を上げるものの、すぐに退却した。
モンゴルがなぜすぐに退却したのかその理由はよくわからないが、
少なくともいわゆる神風が吹いたからではないようだ。
有力なのは、モンゴルはそれを既定の方針とし
日本を一撃したうえで、外交姿勢の軟化を待とうとしたという説だ。
弘安の役
弘安の役では、その直前にモンゴルによって滅ぼされた、南宋軍が主力となり総勢14万人が襲来したとみられる。
文永の役の4〜5倍もの人数が襲来したのか
この時は、日本側が十分に準備を整えていたため
モンゴル軍は上陸できないまま約一か月間も洋上にとどまることになった。
そこに台風(いわゆる神風)が吹き多くの船が沈んでモンゴル軍は撤退した。
フビライはその後も日本遠征を企図するが内乱もあって3度目の遠征は不発に終わった。
こうして、日本は世界最強の大帝国から
国土を守ることができたのね。