稀代の怪僧はいったい何を狙っていたのか?
奈良時代は平和な時代とは言えなかったんだね〜
天平12(740)年には、大宰府の藤原広嗣が挙兵し、大きな争乱が勃発した(藤原広嗣の乱)。聖武天皇は動揺して平城京を放棄、以後、恭仁京、難波京、紫香楽京と都を転々と移す。
道鏡の登場
天平宝字元(757)年には、橘奈良麻呂の変が起きた。
奈良時代の覇権は、藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川の順で推移していたが、橘奈良麻呂は、橘諸兄の息子で、その次の権力者である藤原仲麻呂を暗殺するクーデターを企てたのが、橘奈良麻呂の変である。
「ひどい(不比等)長屋(長屋王)に四人の子(四子)。モ(諸兄)ナカ(仲麻呂)どう(道鏡)、百円(百川)で」
っていう語呂合わせの覚え方が有名だよね。
奈良中期の政治が混乱した背景には、僧・道鏡の存在があった。
道鏡の影響力
聖武天皇の娘である孝謙太上天皇は、僧・道鏡に籠絡され、道鏡の意のままに動くようになった。
それ以前、政治の中心にあったのは、藤原仲麻呂である。彼は、橘奈良麻呂の変を平定し、天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という名を賜るほどの地位にあったが、道鏡の登場よってその地位が揺らいだ。
道鏡を寵愛しすぎる孝謙上皇を危険に考えた藤原仲麻呂は、天平宝字8(764)年、孝謙太上天皇と、道鏡打倒の兵を起こすが、その挙兵は失敗し、殺害されてしまう(恵美押勝の乱 又は藤原仲麻呂の乱)。
その後、孝謙太上天皇は、称徳天皇として再び天皇に即位し、道鏡をさらに寵愛する。
俗説では、道鏡と孝謙上皇の関係はただならぬ関係だったらしいわ。
聞いたことある、、、夜に強い僧侶ってことだよね?笑
確かに俗説ではあるみたいだけど、、、道鏡恐るべしだな。
でも、そんな力で天皇が手に届くほどまで出世しちまったんだから凄いよな。
結局、力のある者に取り入れられた者勝ちってことなのか??
結局、長くは続かなかったみたいだけどね。
そもそも道鏡が孝謙太上天皇に気に入られたのも、母である皇太后が亡くなった時に献身的に尽くしたことがきっかけだとも言われている足しいぜ。
あれかな、弱っている時に優しくされて惚れてしまうやつかな。
日本史に男と女の歴史ありだな。
道鏡は、法王という天皇に準じる地位を手に入れ、天皇の座まで狙ったとされる。
そこで起きたのが、「道鏡が皇位につくべし」という託宣が下された宇佐八幡宮神託事件でした。
しかし、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻まれたと伝えられている。
没落
宝亀元年(770)年、称徳天皇が没すると、道鏡は後ろ楯を失い、追放された。
というように、内乱、政治的混乱が相次いだ奈良時代には、道鏡という稀代の僧侶の影があったのだ。
そしてこの奈良時代は、土地制度が大きく変化した時代でもあった。
土地制度の変化
律令政治が目指した公地公民制は現実に則したものではなかったので、すぐに崩れはじめたのだ。
そこで、養老7年には三世一身法、天平15(743)年には墾田永年私財法が出されて、土地私有化の道が開かれた。
せっかく土地を開墾しても、三代しか持ち続けられないのと、永年所有権があるのとでは全然違うものね。
公地公民制は建前上のものとなり、貴族や大寺院は大規模な開墾をはじめ、その田は荘園と呼ばれるようになった。荘園は、平安時代になると、さらに広がっていった。