孝明天皇の死の裏には岩倉具視の影があった
孝明天皇を暗殺した張本人は、岩倉具視だと噂されています。

健康だったはずの孝明天皇
孝明天皇とは第121代天皇で、12代将軍・徳川家慶の在位中に即位している。即位時は、まだ6歳だった。
政治経験が乏しいままに安政の大獄や桜田門外の変などが起きた動乱の時期を駆け抜けることとなる。
また、公武合体運動の推進などを行ない、天皇としての尽力に努めた。
天皇の多忙さに周囲は天皇の心労や体調を心配するが、
天皇はいたって健康だったという。
そんな孝明天皇が急な発熱で倒れたのは1867 年1月6日のこと。
原因は天然痘と発表される。
すぐに24時間体制での治療措置がとられ、
その甲斐あってか天皇の症状は順調に回復しはじめたが、
病状は急変。そのまま帰らぬ人となってしまった。
波紋を呼んだ天皇の急死。岩倉とするならば、、、その動機は?
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36歳で崩御された孝明天皇。
健康だった天皇の急死には暗殺説が浮上する。
あまりに急なできごとだっただけに、
孝明天皇は何者かによって暗殺されたのではないかという暗殺説が囁かれたのも無理はないだろう。
いったい誰が何のために天皇を殺したのか…
天皇が死んで一番得する人物はいったい誰なのか…
そこでひとりの男の名前が浮かび上がる。
のちの王政復古の大号令で知られる男、岩倉具視だ。
岩倉具視はかつて公武合体論者だったが、
彼は世間が倒幕ムードになるとあっさりと尊王攘夷に転向。
これが結果的に孝明天皇との関係に決裂を招くこととなってしまったのだ。
孝明天皇が在位されている限り、出世することは難しい。
そう考えた岩倉が天皇暗殺を企てた…というのである。
明治天皇へと変わって、岩倉は出世
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孝明天皇から明治天皇へ変わると岩倉は一躍出世。
これは孝明天皇が在任していればありえない展開だっただけに、
さらに岩倉具視による暗殺説を盛り上げることとなってしまったのだ。
そんな天皇暗殺が囁かれる岩倉だが、彼にはもうひとつ疑いがかっているものがある。
天皇すり替え説だ。
これは睦仁親王が明治天皇となられる際、別の者に差し替えられたというもの。
それを示すように即位前と後で天皇はまるで違う人なのである。
たとえば、睦仁親王は天然痘を患っており、
顔面には天然痘特有の後遺症があったが、明治天皇の顔には見 られない。
また、虚弱体質だったという幼少時代に対し、即位後はといえば、側近の者を相撲で投げ飛ばすこ ともあったとか。
さらに、
「字が下手」
「政務に無関心」
「乗馬の記録がない」
という睦仁親王に対し、明治天皇は真逆の要素を持っているのである。
天皇はすり替えられていた?
それではいったい誰にすり替えられたのだろうか。
その人の名は南朝の末裔である大室寅之祐。
つまり 「北朝」系の子孫である睦仁親王に代わり「南朝」の 大室が即位したということだ。
これにより北朝系に仕えていた徳川家や松平家は、
天皇にとって「逆賊」に なってしまった。
これが新政府にとって江戸幕府勢力を一掃する「口実」となり戊辰戦争が起きたのである。
岩倉は天皇をすり替えることによって旧体制を完全に破壊することに成功したということである。
当時、人々は噂を耳にしては真相を確かめようとしてきた。
しかし、明治に入ると皇室のプライベートやスキャンダルを公言することはタブー化されてしまう。
岩倉は周囲の追及をうまく、免れたのである。