家康はどんな人質時代を送っていた?
家康は、6歳で織田氏の人質に、8歳で、今川義元の人質となった。
以後11年間も家康は人質にされ、このときに身につけた「忍耐力」で家康は征夷大将軍にまでのぼりつめた。という事は、よくいわれている。
なぜ人質にされたのか?
結論から言うと、織田氏と今川氏は
松平氏を利用しようとしていたからだね。
当時の松平氏は、尾張の織田信秀(信長の父)と戦っており、駿河の今川義元に頼っていた。
しかし、松平氏の内部分裂を利用して、織田軍がさかんに攻めてくるようになる。
家康の父である松平広忠が今川義元に援軍を頼むと、義元は、なんと家康を人質に差し出すよう要求してくる。これが、家康の最初の人質の経験となる。
6歳で織田信秀の人質に
1547年、6歳の家康が家臣に守られて岡崎を出発し、三河湾を船でわたって渥美半島の田原町に着くと、田原城主の戸田康光が家康をとらえて、織田信秀のもとへ送った。
康光は、広忠の後妻の父親だったので、思いがけない裏切りだった。
8歳では、今川義元の人質に
その後、松平広忠と今川軍は、小豆坂の戦い(1548年) で織田軍を破りましたが、広忠は翌年、暗殺される。
今川軍は安祥城(安城市)を攻めて、織田信広(信長の異母兄)を捕らえ、信広と8歳の家康を交換した。
今川義元も、松平氏を利用しようと考えていたので、家康を人質として、駿府で暮らさせていた。
織田氏の人質だった家康は、交換により今度は今川氏の人質となる。
人質のたらい回しや。笑笑
閉じ込められていたわけではない
しかし人質だったといっても、縄で縛られていたわけではないし、牢屋に閉じ込められていたわけではない。家来たちもいたし、外にも出かけることができた。
ようするに、「監視下に置かれていた」
という程度の人質生活だったのよ。
人質でも可愛がられていた
今川氏は家康をかなり可愛がっていたようで、
今でいう家庭教師をつけ、様々な学問を身につけさせていた。
元のの領地を支配する権限もそのままだった。
家康の正室は今川義元の姪であり、このことからも、両者の関係が親密だったことが伺える。
人質に取った人間の娘と結婚だなんてよほど関係性良いんだな。
家康の裏切り
だが結果的に家康は今川氏を裏切ることになる。
その自分の行動を正当化するには、今川にはひどい目にあったという話をでっちあげる必要があった。
こうして、 今川は悪役とされ、家康主従をいたぶった、とか領地を横どりした、というようなエピソードが創作されたようだ。
家康って、事実っぽい嘘のでっち上げするの得意じゃないか!?
そうかもね。徳川の姓に改姓する時だって家系図のでっち上げが凄かったもんね。笑笑
でもそういう政治力が、天下統一した人の特徴だったりして?笑
なんか、タイミングを見計らって、サラッと普通の人ならやらない様な事をやってのけるイメージがあるわね〜。。。
それが天下統一までこぎつけた政治力なのかもしれないね。