本能寺の変後、秀吉が権力を握るまで
本能寺の変での信長の死後、最も早く駆けつけ明智を討ったのは秀吉でした。
この行動が、のちの運命を大きく変えることになったのです。
本能寺の変の情報を知ったのは
一番早く知ったのは堺の部隊
一番早く情報が届いたのは秀吉ではなく、当日(1582年6月2日)午後にも情報が届いた、四国遠征を控えて堺に部隊を集めていた織田信孝と丹羽長秀でした。
しかし、彼らは何もすることができず、部下の中には脱走兵まで出てしまう始末でした。
次に知った秀吉が明智を討った
次に情報が届いたのは備中高松城を攻めていた羽柴秀吉で、翌日6月3日の夜に情報が届いたと言われています。
他の武将たちよりも比較的早い段階で知ったことで、すぐに毛利氏と和解をまとめ、京都へ引き返しました。これが世に言う「中国大返し」です。なんとこの時の秀吉軍は、3 万人も兵を引き連れながら、 1 日 50 キロもの距離を進んだと言います。
賤ヶ岳の戦いでも見せた機動力
秀吉の軍が本能寺の変の時以上に速かったのが、『賤ヶ岳の戦い』の時です。この戦いの時は、1万5000人の兵をつれながら、52キロをたった5時間で走り抜けたのです。その甲斐もあり、相手の柴田軍は、混乱して敗走することになっています。
古参部下たちは知るのが遅かった
古参有力部下の柴田勝家と、その配下の前田利家は、翌6月4日〜6日の間と言われています。彼らは上杉軍との対戦中で、魚津城を陥落させた直後にその情報を知りました。8日に魚津城から離れる時にはすでに秀吉たちが急速に京都へ向かっている最中でした。
関東の北条氏と対戦していた滝川一益が情報を知るのは7日〜9日と言われており、その後は北条軍との神流川の戦いで大敗しました。
本能寺の変後の織田家の運命
嫡子の信忠
信長が明智にやられたと言う知らせを聞いた嫡子の信忠は、二条御所に立てこもり、明智軍に対してなす術なく自害してしまいます。
信忠の長男・三法師
織田家の家督を継ぐことになったのは、なんと当時まだ3歳で、秀吉に推薦された信忠の子・三法師でした。元服後は「秀信」と名乗ります。秀吉の「秀」の下に信長の「信」と言う名前からも想像ができるように、秀吉は幼い彼を利用することを考えていたと思われます。
実際、秀信には戦国大名としての才能はあるとは言えず、時代を読む勘もありませんでした。
その後の関ヶ原の戦いでは石田三成側につき、福島正則や池田輝政らに攻められ陥落してしまいます。
嫡子の秀則
信長の別の嫡子である秀則は、本能寺の変後は秀吉の下につき、晩年は京都で静かに暮らしたと言われています。
本能寺の変の真相
『中国大返し』で一番速く駆けつけた秀吉ですが、これだけ速く動けた理由については、「信長の死を前もって知っていたから」や「秀吉本隊だけ先に行軍していたのから」などの説もあります。
結果として、信長亡きあとの織田家では秀吉が大きな権力を持つようになったと言うことです。そのため、本能寺の変が秀吉が黒幕だったのではと言う説もありますが、真相は定かではありません。
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