桓武天皇の新たな国づくりとは
桓武天皇は、奈良時代末期に即位すると、新たな国造りを模索する。
桓武天皇は、それまで長く続いていた天武天皇系の血筋を絶って即位した天皇である。また、彼が即位した奈良時代後半は、僧である道鏡が天皇の座を狙うほどに、政治に仏教が入り込みすぎていた時代だった。
そんな雰囲気を一掃して革命的なことをしようとしたのが、桓武天皇である。
桓武天皇の遷都
桓武天皇の取り組みは、まずは、遷都ね。
延暦3(784)年、桓武天皇は奈良から京都の長岡京に遷都した。
その遷都にあたって、中心人物だった藤原種継が暗殺されるという事件が起きた。皇太子であった早良親王は関与を疑われ、追放される途中で自ら食を絶って息をひきとった。
桓武天皇は、早良親王の祟りを恐れて、延暦13(794)年、こんどは長岡京の北東、平安京に遷都する。
それが、以後、約四世紀もつづく平安時代の始まりとなる。
平安時代の始まり
桓武天皇が平城京を捨てて新たな都に移ったのは、奈良の仏教勢力の政治介入を嫌ったからといわれる。
桓武天皇は、平城京の有力寺社が政治に口出しすることに危機を感じていた。そこで、桓武天皇は、有力な仏教勢力のいない場所に、新たな都を建設しようとしたのだ。
寺社から、政治に口出しされたくなかったのじゃ、、、
蝦夷(えみし)との戦い
桓武天皇のもう一つの政策は、対蝦夷戦の遂行である。当時、東北には蝦夷と呼ばれた人々が暮らし、中央政府から独立した生活を営んでいた。
朝廷としては、彼ら蝦夷を服属させたいと考えていたが、蝦夷はそれを嫌い、対立状態が生じていたんだよな。
桓武天皇は、蝦夷問題を解決するため、中央から今の東北地方へ大軍を送り込んだ。
だが、蝦夷は強敵だった。
当初は族長・阿弖流為の軍に完敗。その後、坂上田村麻呂の活躍によって勝利する。
坂上田村麻呂は阿弖流為を帰順させ、これによって朝廷の勢力範囲は、いまの岩手県あたりにまで広がった。
東北地方の歴史はこちらも参考に、、、☆
桓武天皇の政策は一応の成功をおさめたものの、平安京の造営と対蝦夷戦は国庫を傾けることになった。
結局、対蝦夷戦は中止、平安京の造営も途中で終わってしまった。
藤原薬子の乱
また、平安京遷都への反発を原因として、藤原薬子の乱が起きた。
この藤原薬子は、平安時代初期の女官で藤原種継の娘だったんだけど、安殿親王(後の平城天皇。桓武天皇の次代の天皇)に愛されて、不倫の仲となったと言われているのよ。
それで、桓武天皇が崩御して安殿親王が即位したのちに、天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになったんだな。
桓武天皇の死後、平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位したが、藤原薬子に操られ、平城京への再遷都を図ったのだ。
嵯峨天皇は、蝦夷戦の勇者・坂上田村麻呂を起用して対処し、混乱を収拾した。
政治の歴史ってこの時代から不倫とか多かったのだろうか、、、