千利休はなぜ死に追いやられたのか
千利休が切腹に処せられた理由は諸説がありますが、それらを紹介し、その中でも特に最もらしい理由を考察していきます。秀吉が彼に対して脅威を感じていたため、切腹させられたという説が有力です。
千利休について
人物
信長、秀吉に仕え、わび茶を完成させ「茶聖」と呼ばれた人物です。大阪の堺の魚問屋に生まれ、16歳で品位や教養を身につける目的で茶道を始める。茶道を儀式的なものではなく、茶と向き合う精神性を重視してわび茶を広める。しかし、やがて秀吉との関係性に問題があるなどの諸説があるが、切腹に追いやられてしまった。
死の背景
利休が切腹させられた理由には諸説があるので、それぞれ紹介していきたいと思います。
娘の側室を断ったから?
秀吉から切腹を命じられた理由として有名な説は、「お吟様」という利休の娘を、秀吉が側室にしたいと言ったのを断ったという説です。大切な娘をとるか、将軍をとるか。利休は娘想いだったか、よほど秀吉との関係が悪かったのでしょう。
木像を作ったから?
大徳寺山門(金毛閣)の楼閣に、利休が自分の木像を作らせたことに対して、秀吉が激怒したという説もあります。
利休が切腹したのち、この木像は磔の刑に処せられているので、可能性としてはあります。
茶器の鑑定で不正をしたから?
利休は茶の湯の第一人者であり、茶器の鑑定に関しても彼が良いと言えばそれは良い高価なものでした。それをいいことに、自己の利益を貪るために鑑定で不正を働いていた説があります。
政治闘争に巻き込まれて?
利休は、秀吉の弟の秀長と親しい関係で、秀長が病死した後に後ろ盾を失いました。そして、家康とも仲が良かったため、石田三成の一派の策略により秀吉から切腹を命じられた可能性があります。
秀吉が脅威に感じていたから?
非常に洗練された利休の茶室は、秀吉の「黄金の茶室」とは違い、教養に溢れていて秀吉との美的感覚の違いが伺えます。信長からも信頼されて政治的見解も仰がれ、世間からも茶の湯を完成させた人物として知られ、秀吉は彼を脅威に感じていた可能性があります。
彼が設計した茶室の入口が小さく屈まなければ入れないのは、「茶室では貧富の差がなく平等である」という考えが元にあります。秀吉のように下級身分から這い上がってようやく支配者に慣れた人間にとって、そのような危険な思想を持ち、かつ影響力もあった千利休は脅威に映っていてもおかしくはありません。
歴史にもしはありませんが、、あえて、もし利休が秀吉の脅威を買うほどの人間でなければ、切腹させられずに済んだかもしれないですね。