毛利元就の長男の苦悩と三本の矢

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3本の矢の話は本当にあったのか?長男の思いは

1本の矢では、素手で簡単に折れてしまうが、これを3本束ねれば簡単には折れなくなる。という話です。誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。戦国大名だった毛利元就が3人の息子たちに話したと言われています。

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いつ話されたのか?

毛利元就の臨終の間際に、3人の子供に話したと言われていますが、史実では、元就の臨終といえば1571年です。長男の隆元はその8年前に亡くなっています。ということは、実際に話したのはそれより以前の話だったのではないでしょうか。。。
元就が三人の子供に向けて書いた「三子教訓状」という文書から、その逸話ができたという説の方が有力だと思います。
その内容は、毛利家をしっかり守っていくこと、養子に出た次男、三男も毛利の名を疎かにするなおちう内容でした。詳しい現代語訳はwikipediaにも載っています。元就の、三人の息子に対する思いを読み取ることができるので、結構読んでみると面白いですよ。

それを聞いた子供たちは?

長男の毛利隆元

長男の隆元は、きちんと読み返答をしたと言われています。

家督を継いだ彼ですが、若くして病気で亡くなってしまいます。温厚で、絵画や写経などを好む教養に溢れ、誠実な男でした。
しかし、元就という偉大な父のような超然とした態度が取れなかったり、武勇で知られる次男、智略の三男と自分を比べ悩んだりすることもあったそうです。

実際に元就の文書の中でも、「優柔不断で武将としての資質に欠ける」という言葉が書かれていたそうです。隆元にもその自覚があり、「名将の元には不遇の子が生まれる」という書状があります。

かといって何もしなかったわけではありません。内政や、財務能力に長けていたと言われます。
法度や訓戒を多数制定し、毛利家繁栄のために活動しましたし、彼の死後、毛利家の収入が減少してしまいました。

父・元就が人の上に立ち未来を切り開いていくタイプなら、隆元は内務や財務をしっかり行い組織の基盤を守れる管理者タイプといったところでしょうか。しかし、周りからは「あの元就の長男」という色眼鏡で見られることに、悩んでしまったのかもしれません。

次男吉川元春、三男小早川隆景

毛利元就に滅ぼされた吉川家には、次男の元春、小早川家には、智略で三男の隆景が養子として送られました。才能溢れる二人ですが、三子教訓状が送られた時には、既に養子に送られた後だったこともあり、あまり積極的な反応ではなかったと言います。

次男の元春は毛利家発展に大きく貢献し、山陰地方を治めた名将です。三男の隆景は、勇においては元春には劣るが、智略をもって相手を屈服させることに長けていたと言います。豊臣政権下では、秀吉の信任を受け、五大老の一人に任じられています。事実上の毛利家の主導者であったと言われます。実子はいなく、秀吉の養子になっていたのちの小早川秀秋に家督を譲っています。

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