諸藩の改革が成功した理由は?
幕府が何度も改革を試みては失敗していくなかにあって、
改革に成功した勢力もあった。薩摩藩、長州藩をはじめとする西国の諸藩である。
江戸時代も時代が下るにつれ財政に困窮するようになったのは大方の藩も幕府と同様だった。そんななか、財政再建に成功する藩が登場しはじめたのである。
敏腕役人たちの財政再建ストーリー!
文政10年(1827年)頃の薩摩藩は藩年収総額10数万両に対して、 500万両(3500億円)という巨額の借金が累積していました。
長州藩も同様で、1831年の時点で、銀8万貫(金にして170万両)の借金を抱えていました。
そうした状況の中で短期間に藩財政を建て直し、明治維新に向けての財政的基盤をつくったのが、調所広郷(薩摩藩)と村田清風(長州藩)でした。
薩摩藩
薩摩藩では下級武士である調所広郷(ずしょひろさと)が抜擢された。
黒砂糖に力を入れる
藩の借金を強引に棚上げにしてしまったうえ密貿易にも手を染めて奄美の大島、徳之島、喜界島でとれる黒砂糖の専売に力を注いだ。
当時はヨーロッパ勢力も植民地で砂糖を生産し、一儲けしていて、調所はそれと同じ手法をとったんだね
贋金や密貿易
その時期の薩摩は贋金(にせがね)作りにまで手を染めたともいわれる。
調所の財政改革は成功し薩摩藩の財政はにわかに豊かになる。
調所は、商人に借金の無利子250年分割払いを押し付け、その交換条件として一部の商人資本に対しては密貿易を優先的に取り扱わせて利益を上げさせました。
さらに調所は商品作物の開発を行うなどして財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復しました。
長州藩
また長州藩では村田清風(むらたせいふう)が登場し、やはり藩の莫大な借金を強引に整理した。彼は明倫館で学費を免除されるほど頭脳明晰な男。
第13代藩主に毛利敬親が就任し家老となった村田清風は、天保改革を遂行することになる。
倹約と人事改革
村田清風の政策の代表的なものの一つは倹約です。奢侈禁止はもとい、絹布を着用することを禁じた。さらに長州藩の組織改革に挑み人員の削減を断行した。
彼はとても能力主義な考えを持っており、力があれば中下級武士でも登用するが、逆に名家出身であっても能力がない者は罷免した。
現代的な考えだね。従来のやり方にこだわらずに成果を上げるために必要な事をしていたんだね。
特産物の取引強化
殖産政策にも取り組み、防長四白の増産を図った。
防長四白とは、「米」「塩」「紙」「蝋(ろう)」の特産物のことで、いずれも白い色をしているため、そう呼ばれるようになりました。特に蝋の自由貿易では大きな利益を上げます。
商人の登用と自由取引
天保14年(1843年)には家臣団の負債を37年かかって元利完済するという三七ヵ年賦皆済仕法を制定する一方、専売制を廃止して商人による自由な取引を許しました。そのかわり、商人に対して運上銀を課税しました。
村田はさらに、白石正一郎や中野半左衛門といった豪商を登用して、越荷方を設置しました。
越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業のことである。
他国船の越荷(他国から越えてきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を委託販売したりして、利益を得た。
船の荷物を担保にとって倉庫業と金融を同時にやるって頭良っ!!
なるほどなあ。物を押さえてしまえばそれが強みになったわけだ。斬新だなあ。
佐賀藩
佐賀藩では藩主・鍋島直正自身が藩政改革に乗り出し特産である陶磁器の専売などによって利益をあげた。
幕末の時代に、17歳にして佐賀藩主に就いた直正は、長崎のオランダ船に自ら乗り衝撃を受ける。その肌で日本と西洋列強との軍事技術の差の大きさを感じたのだ。
直正は特産品の利益で得た資金を富国強兵に注ぎ込んで日本で初の反射炉を完成させるなど佐賀藩を雄藩に押し上げた。
このようにして、薩摩藩や長州藩、佐賀藩は幕末には実力のある雄藩として注目されやがては動乱の時代の中心的な存在になっていく。