米将軍・徳川吉宗は何を改革し、何につまずいたのか?
享保の改革とは
元禄時代が終わると、
1716(享保元)年、紀州藩主だった徳川吉宗が八代将軍に就任。まもなく、財政再建を中心に幕政改革に着手。まもなく先例にとらわれない改革を次々と実施し、みごとに傾いた財政を立て直した。
彼が行った享保の改革は、
財政再建と風紀の取り締まりを目的としたものだった。
節制!節約!風紀取締り!のキビシイ〜政策。
それは、他の改革も同様だったが、享保の改革が他の改革と違うのは唯一、一応の成功を収めたという点だ。
吉宗は「幕府中興の祖」と呼ばれ、享保の改革はのちの寛政の改革や天保の改革のモデルとなった。
享保の改革の背景
吉宗登場以前の17世紀末ごろから、
幕府の財政は悪化しはじめていた。
すでに金山・ 銀山の産出量が減少していたうえ、
明暦の大火(1657年)後の江戸再建に多額の資金を必要としたためだ。
荻原重秀の時代
そこで綱吉の元禄時代には、
勘定吟味役の荻原重秀が貨幣の改鋳を進言、
貨幣の中の金銀含有率を落とし、貨幣を水増しした分の「出目」を幕府の財源にした。
質の悪い貨幣を増やしたのが萩原の政策です。
ところが、貨幣の数量が増えたたため、
その価値が下落してインフレが進行する。
インフレとは、物価上昇のことだよね。てことは
→つまり相対的に貨幣の価値が下がったのか!
そして次に来る新井白石が元に戻したの。
つまり貨幣の価値を上げようとします!
新井白石の時代
六代将軍・徳川家宣の時代になると、新井白石が抜擢され、貨幣を元に戻した。
また、新井白石は正徳5(1715)年、海舶互市新令を出して、長崎貿易を制限した。
長崎貿易によって多量の国内の金銀が流出していたため、それを国内に止めようと図ったのだ。
と替わりにそれまで輸入に頼っていた綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物、なんかは「 国内で作っちゃえ 」と推奨したようです。
さらに、勘定吟味役も作り、お金の出入りを厳しくチェックしました。
これらの改革で、今度はデフレにおちいりました。
物を売っても、全然金にならなくなるのです、、。
だが、白石の改革(正徳の治)も中途半端に終わる。
吉宗の改革は幕府は潤うが農民には厳しい政策!
享保元(1716)年、徳川吉宗が八代将軍の座につくと、
新井白石を退けて、大岡忠相(越前)らを抜擢する。
徳川吉宗といえば、テレビドラマ「暴れん坊将軍」のモデルとして、有名だ。
この由来は、幼い頃から暴れん坊だったかららしい。
そんな吉宗がとった財政再建策は、倹約と年貢徴収を増大させることであった。
倹約令を出して支出を抑制する一方で、定免法という新たな年貢法を定め、
年貢を増やして財政収入の拡大を図った。
民衆たちにとっては厳しい改革 ( > < )
現実に年貢収入は増えて、幕府の財政は好転したが、
農民にとっては負担の大きい改革だった。
また、吉宗は新田開発や商品作物の栽培を奨励して、
経済規模を拡大させようともした。
足高の制
各役職には各々禄高の基準を設けられていた(例:大番頭5000石)。
それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している石高を補う制度である。
足高の制は
つまり給料が低い者に追加するボーナスです。
定免法
改革以前、年貢率はその年の米の作柄によって決定されていた。ところが、吉宗は豊作凶作にかかわらず、定額を徴収する「定免法」を採用した。これによって、幕府財政は安定したが、農民にとっては、凶作でも年貢が減免されないので、非常に大きな負担となった。
定免法により、過去5年間、10年間、20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるので、豊作か、凶作かに関わらず、数年間は一定の年貢高を納めると言う制度。
これにより、年貢が安定できるようになります。
また、この時期、新田開発が盛んに行われたが、開発された土地の大半はもとは農民たちの共有地だった。
農民たちは、そこから草肥や薪、山の幸などを調達していたのだが、新田開発によってそうした恩恵を受けられなくなった。
上米の制
石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、
参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした。
参勤交代を減らしたいなら、お米を上納するルール
倹約令
倹約令は、その名の通り、倹約を推奨する法律だ。
奢侈(しゃし:贅沢すること)を禁じ,経費の節約を奨励し,身分秩序の維持を目的とした命令だ。
吉宗の時代は倹約が厳しい時代と言うのは記憶必須だね
公事方御定書
刑事関係の成文法規。
この適用を受けるのは,原則として一般庶民です。
上巻に司法警察関係の法令 81通、下巻に刑法,刑訴,民訴など実体法、手続法 103条を収める。
目安箱
聞いたこともあるかもしれないが、庶民の目安 (訴状) を聞くための箱だ。
江戸城竜ノ口評定所前に設置し、民意聴取のための一施設とされた。
庶民の意見を聞くための制度ね。
増税により農民が苦しむ
吉宗はそれまでは低く抑えられていた畑の租税を重くし、税が免除されていた河川敷の土地にも課税した。
吉宗以前の家宣・家継時代の年貢は平均で収穫の27.6%程度だったのに、吉宗時代には5割にもなった。年貢がおよそ2倍となっては、ただでさえ苦しい農民の暮らしはいよいよ苦しくなる。
実際、不満を募らせた農民一揆が増加し、 凶作になると飢えた親による子殺しなどが相次ぎ、享保の改革以降、日本の人口はほとんど増えなくなってしまった。
吉宗の失敗
米の相場を中心に改革を行った吉宗、通称「米将軍」であるが、
吉宗の財政再建策はおおむね成功したのだが
やがて米価コントロールでつまづいた。
米を増産すれば、当然需要と供給の関係から、米価は下落傾向にならざるをえない。
すると、俸として米を与えられる武士の収入は相対的に減っていき、
武士の生活を圧迫することになった。
いつの時代でも、物価のコントロールは経済にとって
大きな要素だったんだね。江戸時代と言っても今と変わらないじゃないか。
吉宗は、武士の生活を救済すべく、
米価の引き上げを試みるが、それはうまくいかなかった。
以後、米価の低落基調が長くつづき、幕府財政はいよいよ苦しくなっていく。