豊臣政権はなぜ徳川家康にひっくり返されたのか?
朝鮮戦争と秀吉の死
その理由は朝鮮戦争にまで遡ります。
文禄元(1592)年、豊臣秀吉は15万人の軍勢を朝鮮半島に渡らせる。
朝鮮侵略の始まりであり、いったん中止後、慶長2(1597)年に再開される(文禄・慶長の役)。
当初、日本の軍勢は進撃をつづけるものの、明が李氏朝鮮に加勢したうえ、李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍もあって、戦線は膠着状態となった。
慶長3(1598)年に豊臣秀吉が没すると、日本側は撤兵した。
朝鮮戦争に踏み切った理由
秀吉が朝鮮に兵を送り込んだ意図をめぐっては、
いまだ諸説あり、定説はない状態だ。
たとえば、
①秀吉の真の目的は明王朝の征服にあり、明の都に天皇を移すつもりであったという説。
あるいは、
②恩賞欲しさに戦いを求める武将たちを満足させるためだったという説もあれば、
③ヨーロッパ勢力の東アジア侵入を予防するためだったといった見方もある。
さらには、
④秀吉の主だった織田信長の構想を継承したという説や、
⑤単に老いからくる秀吉の誇大妄想の結果だったともいわれる。
ともあれ、朝鮮出兵は朝鮮半島に惨禍をもたらし、明王朝を疲弊させ、その崩壊の原因にさえなった。
豊臣政権の崩壊にも繋がった
秀吉が死に、朝鮮から撤兵すると、そのわずか二年後に関ヶ原の戦いが行われ、徳川家康が天下を奪いとるのだ。
じつは朝鮮出兵によって、豊臣政権内には修復不可能なヒビがはいった。
元々、朝鮮出兵を巡っても豊臣政権内で対立が生まれていました。
豊臣政権内では、石田三成に代表される文吏派と、
加藤清正、福島正則らの武闘派が、ことあるごとに対立し、
武闘派は石田憎しの感情から、徳川家康に寄与するようになる。
家康が関ヶ原の合戦で率いた主力部隊には、
福島正則をはじめとする豊臣政権の武闘派武将が加わっていた。
朝鮮出兵への流れはこちらの記事も参照です
関ヶ原の戦いと江戸時代の始まり
一方、石田三成は豊臣政権安泰のためには、
家康と一戦する必要があると決意し、西軍を組織する。
家康はその挑戦を受けて、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに至る。
開戦から数時間の間、西軍は東軍相手に拮抗した戦いを展開したが、
味方の裏切りによ って崩壊、石田三成はいったんは逃亡するものの、捕縛・処刑された。
三成さん負けちゃったんさな〜。
関ヶ原の合戦が終わると、勝者となった徳川家康の前に、豊臣家の存在は相対的に小さくなった。
豊臣家が65万石余の大名に落とされる一方、慶長8(1603)年、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、徳川幕府の時代(江戸時代)が始まる。
元和元(1615)年、家康は、豊臣氏の籠もる大坂城を攻め、豊臣氏を滅ぼした(大坂の陣)。
日本における大名同士の戦いは、これが最後となる。