蝦夷地開発を夢見ていた坂本龍馬
坂本龍馬といえば、日本初の海運商社「亀山社中」を創設したよね。
それと関係があるのかな?
もちろん、大ありだよ!!
1度目は池田屋事件で失敗
土佐の人たちが蝦夷地に興味を持ったのは安政年間。
函館と下田に米領事館が設置されると、
土佐藩からも北方視察に行く者が登場。
そして彼らの視察話を聞いた龍馬は、
蝦夷地の開拓を夢見るようになったという。
だが実施直前に発生した池田屋事件により、
計画は中止に終わる。
池田屋事件といえば、池田屋に集まっていた尊攘派の志士たちを
新撰組が奇襲した事件だよね。
松下村塾の吉田稔麿など多くの志士が闘死してしまったのよね。。。。
龍馬の夢は呆気なく海底へ
それでも龍馬は夢を諦めなかった。
だが、脱藩後の龍馬など、事実上の失業状態。
そんな龍馬を見た木戸孝允は、
下関の本陣・伊藤家に寄寓(きぐう)させ、
商売をさせようとしたのである。
当時の下関は、秋には北国の物資を積んだ北前船が集まっていた。
また、蝦夷地から日本海を西回りし、下関から瀬戸内海に出て大坂へと抜ける北前航路も繁栄し、何かと蝦夷地との繋がりがあったのだ。
全くの未開の地という訳ではなかったんだね。
木戸にチャンスをもらった龍馬は下関を本拠に移し、
ふたたび蝦夷地開拓を試みたのである。
蝦夷開拓へ向かうぞ!!!
龍馬は妻を長崎から呼び寄せ着々と計画を進めていく。
そして北行の船としていろは丸をチャーターする。
いろは丸とは?
いろは丸は1862年、イギリスで建造され、1866年に、オランダ人から大洲藩郡中奉公である国島六左衛門が購入する。
私の名前とは関係ないよ!!笑
そして1867年、大洲藩が坂本龍馬に貸与したのだ。
大坂に物資を運ぶため に長崎を出港する。
海援隊の武器などを積載したいろは丸が
鞆の浦沖の六島付近で、紀州藩船である明光丸と衝突し
初航海にして、なんと沈没してしまったのだ。
結局、 この年の末に龍馬は暗殺され、夢が実現することは未来永劫なくなってしまったのである。
いろは丸は沈没とともに、この船に託されていた龍馬の蝦夷地開拓の夢も、儚く散ることとなったのだ。
しかしこの事故当時の龍馬は紀州藩に対して、、、
日本にこれからこの種の衝突事故が増えてくる。
そのよき先例とするために、両者だけのいいかげんな妥協は致すまい、ということです。
全て法と公論による。あくまでそれを原則として解決してゆく。ご異存はござるまいな。
などと言い、法による解決を強調した。
紀州藩は無論のこと、全ての日本人は万国公法などは知るまい。海事裁判という概念も知らないだろう。それを教え込み、説き伏せ、ねじふせ、その上で賠償金をとり、日本の海難事故に、「法」というものを打ちたてようとするのが、この瞬間から燃え上がった竜馬のエネルギーであった・・・(竜馬がゆく7巻より)
このようにして龍馬は、国際法に則り、航海日誌の調査をさせるなど、、紀州藩と裁判で戦って勝ったそうよ。まだそのような慣習がなかった日本で、龍馬は先進的な「法律という武器」を身につけていたと言われているわ。
本当にすごいよな。
有名な歴史小説「竜馬がゆく」の7巻では、その当時の様子が詳細に描かれていてすごくリアルだったよ。