黒田官兵衛の野望!関ヶ原の戦いで天下を狙っていた?

人物

黒田官兵衛は関ヶ原の戦いで天下を狙っていた

黒田官兵衛は、実に策士であり野心家タイプでもありました。その高過ぎる能力切れる知恵から、主君である秀吉の評価は、実力は認めるが、どうも信頼しきれないところがあった様です。その様な背景もあれば、自ら天下を獲ろうと考えていても不思議ではありません。

黒田官兵衛(如水)とは

大河ドラマでも話題になった黒田孝高(よしたか)は、通称 黒田官兵衛、黒田如水の名で有名になっています。歴史上最も有名な名軍師の一人であり、その人気も大河ドラマでさらに火がつきました。

秀吉の側近として使えた彼は、山崎の戦いや、九州征伐など、いくつもの戦に参加して活躍していた軍師です。秀吉が、「自分の代わりに天下を取れる可能性があるとしたら黒田官兵衛だろう」と雑談で話すほどの名軍師でした。

関ヶ原の戦いが予想外の短期戦に終わってしまう

徳川家康の東軍と、石田三成の西軍が争った関ヶ原の戦いは、今年の映画『関ヶ原』でも有名ですが、実は黒田官兵衛はこの争いに乗じて天下を狙っていたとも言われています。

黒田官兵衛の作戦とは

秀吉は1598年に没していますので、1600年の関ヶ原の戦いの時は既に亡くなっています。まさに、次の天下を誰が獲るのか、という時代だったのです。官兵衛は秀吉が亡くなった1598年に上洛し伏見屋敷にいました。

この上洛は東西の情勢を読み取るためだったのです!

この時に吉川広家(きっかわひろいえ)に渡していた手紙には、天下の大乱が起こることを予測した記述がありました。。。。そして迎えた1600年の関ヶ原の戦い!

黒田官兵衛も、三成の挙兵を聞いて、領内の兵士や農民をかき集めて 9000 もの軍隊を作り上げました。そして、両軍が戦いで疲弊したところを狙い撃とうとしていたのです。。。

短期戦に終わってしまった

関ヶ原へ北上し、西軍に属す息子の黒田長政と敵対することも覚悟して、進軍していた。ところが、毛利領に進軍したところで、事態は判明してしまう。

両軍の兵糧や兵力からすると、戦いはかなりの長期戦になると思われていた。「漁夫の利」を狙う黒田官兵衛にとっては、疲弊したところを狙う作戦出会ったが、なんと戦いは半日で終わってしまっていたのだ。

彼は遣る瀬もなく、城に帰っていった。

長政に八つ当たりしていた

一方、西軍で大成功を収めた息子の長政は、52万石も与えられたので、官兵衛は長政に八つ当たりをしていたと言われています。官兵衛の賭けは失敗し、家康が大勝利を収めたため、天下は一気に家康に近づく結果になったのです。

人物
スポンサーリンク
タザキをフォローする
サラリーマン副業のススメ