なぜ応仁の乱は11年も続いていたのか

日本史

なぜ応仁の乱は11年間も続いたのか

応仁元年に始まった応仁の乱は、将軍家の争いだけでなく全国の大名の争いまでも巻き込み、11年も続くことになります。しかし、本当は何度も停戦するチャンスがあったのに、時勢はそれを許さない結果になり、11年も続くことになります。一番の被害者は、戦いの中心になった京都の民衆たちでしょうね。

応仁の乱概要

応仁の乱は、室町幕府 8 代将軍義政の継嗣争いを始め、室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争い、細川勝元と山名宗全の対立や、守護大名家の継嗣争いが複雑にからみあって起こったものです。京都を中心とした戦争は次第に全国へと拡大、戦いは延々と続き、終戦を迎えたのは11年も後のことでした。

実は、11年の間には訂正のチャンスは3度もあった

将軍の継嗣争いに決着

開戦から3年、時期将軍に義政の子、義尚の就任が決まり、戦乱が起きた理由の1つでもある「将軍の継嗣争い」に、決着がついたのである。だが義政には政治力がなかったため、戦いはそのまま続行することになります。

山名の和平提案

3年後、また停戦のチャンスがやってきます。山名宗全が和平提案を申し出たのでした。だが東軍の1人が猛反発。室町幕府はたった1人の抵抗さえも抑えることすらできず、戦闘は続くことになしました。

細川と山名の死

最後のチャンスは 1473 年。細川勝元と山名宗全が死亡し、将軍も義尚に変わりました。しかし、またも守護大名の反発を受け、和平交渉は失敗に終わってしまったのです。

目的を見失っても戦乱続行

このように『応仁・文明の乱』は、途中から戦う目的も曖昧になったまま収拾がつかなくなり、11年間もずるずると戦い続けることになったのである。(応仁元年 – 文明9年。応仁元年(1467年)に始まったことから応仁の乱という名前が有名ですが、戦乱期間の大半は文明年間だったので、応仁・文明の乱とも呼ばれています。)

この余波で京都の民家はほとんどやけ、貴重な文化財も失われてしまった。将軍の継嗣争いで始まったこの戦いの1番の犠牲者は、実は何も関係のない京都の民衆達なのかもしれない。

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