応仁の乱から戦国時代が始まるまで
15世紀、東国が「プレ戦国時代」に突入し、
西国で乱や一揆が多くなると、
中央で大きな争乱が起きるのも
歴史の必然だったといえるだろう。
応仁の乱とは
応仁元(1467)年、京都で応仁・文明の乱が勃発する。
この乱は、応仁・文明年間の約11年間におよぶ長い争乱となり、
京都は焼け野原となった。
応仁の乱の発端
その発端は、八代将軍・足利義政のあとの将軍家の跡目争いと、
管領・畠山家内の勢力争いである。
そこに、幕府の有力者と守護大名が
それぞれの陣営に味方して、大乱となった。
乱の中心となったのは細川勝元、山名持豊(宗全)という
二大有力者であり、細川方が東軍、山名方が西軍となって京都の町中で対峙した。
当初は東軍が優勢だったが、やがて一進一退の戦いとなる。
戦乱の間に細川勝元、山名 持豊という双方の実力者が病没、
両軍は戦いに疲れ果て、文明9(1477)年、和議を結んだ。
勝者のいない戦いが終わってみると
室町幕府の権威は完全に失墜し近畿すら勢力範囲として維持できなくなった。
戦国時代の始まり
この戦乱で京都は壊滅状態に陥った。
京都を焼き荒し回ったのは足軽といわれる歩兵たちである。
彼らの乱暴狼藉は地方にも飛び火し、
地方での戦乱をより加速させた。
一方、戦乱のなか地方では国人と呼ばれる人々が台頭しはじめた。
国人は地侍であり、独立した村落である惣村の代表者でもあった。
守護大名らが領国を離れ、京都の戦乱で消耗しているうちに、
その地元では国人が勢力を伸ばし、
守護大名の権力と権威を脅かしはじめたのだ。
文明17(1485)年には、山城国の国人衆が団結して、
守護の畠山氏を国外に追放した。これが山城の国一揆だ。
長享2(1488)年には加賀の一向一揆が起きる。
加賀の国人衆と一向宗(浄土真宗)勢力が結びついて、
領主・富樫政親を滅ぼし、独立国を築いた。
この応仁の乱以降、下が上を倒すという
下克上の風潮が全国的に広まった。
本格的な戦国時代が始まったのだ。
文化面
また、そのころ、文化面では、
能楽から狂言が派生した。
武士が能楽を愛好したのに対して、
武士や僧らを皮肉る狂言は民衆に支持された。
ここにも、下克上の風潮が影響を及ぼしていたといえる。