無能というのは間違い!?小早川秀秋は実はやり手だったのか?
関ヶ原の戦いで結果を左右する裏切りをした事で有名な小早川秀秋。
この当時まだ19歳。そしてその後たった2年で無くなっています。彼は無能の裏切者のレッテルを貼られることが多いですが、本当にそれだけの男だったのでしょうか?
その真相に迫ります。
小早川秀秋の歴史年表
まずは彼の年表を振り返ってみます。
1594:秀吉の命にて小早川隆景の養子として小早川家に入り秀秋と改名
1595:養父・隆景が隠居し、領地を継承。筑前名島城主となる
1597:第2次朝鮮出兵に総大将として出陣
1598:朝鮮出兵の軽率な行動から、秀吉により領地没收
1600:西軍として関ヶ原の戦いに参戦。途中で寝返り東軍に
1602:死亡
政治面では改革に積極的だった
関ヶ原の戦いの最中に西軍を裏切り、結果として東軍に勝利をもたらした小早川秀秋。
その印象が強いた めか、愚鈍で卑劣な裏切り者というレッテルを貼られてはいるが、近年になって実は有能な武将だったのかもしれないという説が浮上している。
そもそもそんな重大な裏切りをできる事自体、それだけ重要なポジションに若くして付いていた証拠。
全体の戦況を把握したり、その後の自分の立場なども考えるはずだから、相当頭良かったんじゃないのか?
まず、実績として残っているのは政治面。
関ヶ原の戦いののち、岡山城に入城した秀秋は、急速に近代化を進めた。
わずか3日間で完成させた外堀二十日堀の他、検地の実施、寺社領の再整備などその治績は数知れず。
しかし、不運にも在封わずか2年足らずで没したため、大きな評価を得るには至らなかった。
躊躇したのも優れた戦略眼が原因?
戦の面では総じて評価が低い秀秋だが、それも疑問が残るところがある。
秀吉の朝鮮出兵で総大将を務めた際、秀秋は自ら敵陣に斬り込んで2以上の首級を挙げるが、軽率だと秀吉に叱られて領地を没収された。
むしろすごいやん。
秀吉のいうことももっともだが、このとき秀秋は15歳前後。若くして勇猛果敢に戦ったと評価されてもいいという意見もあるのよ。
また、関ヶ原の戦いにおいて寝返りを躊躇したのも、西軍が疲弊するのを待っていたと考えれば合点がいく。
奮戦中の大谷吉継の側面をついたことで西軍は浮き足立ち、寝返る諸将も相次いだ。
結果としては大成功。
生涯たった2度の戦であるが、この結果から無能と判断するのは早計すぎやしないだろうか?
小早川秀秋の死因
東軍勝利の決定打の寝返りをした小早川はその後、筑前名島35万石→備前岡山51万石を与えられている。
しかし2年後に21歳で急死し、後継がいないために改易されている。
その死因は、アルコール依存症による内臓疾患が有力な説だが、
なぜそのような状態になったというのは、関ヶ原での裏切りで自責の念にかられて精神を病んでしまったとも、大谷吉継の霊が出てきたためとも言われています。
さらに、元々脳に障害を持っていたのではなど、様々な説があり、本当の死因は解明されていません。
どちらにしても、戦をするというのも相当な精神的なストレスであるわけで。
年齢も若くして責任の重いポジションで戦い、さらに裏切者扱いまでされてたら、精神おかしくなったと言っても不思議ではないと思います。
頭は良かったでしょうから、繊細な部分もあったのではないかと、田崎的には想像しています。
歴史では、勝者が歴史を自由に書き残せるというのが通説だから、小早川は本当は有能でも、裏切者のレッテルや早く死んでしまった事で、印象悪くなっている可能性は高いですね。こういうキャラは個人的にはどこか親近感を感じます。有能でも不器用な男だったのではないか。
小早川のような者は例え優秀だったとしてもヒーローにはなれず、
家康のような生きるのが上手な人間が勝ち残り英雄になるのは、いつの時代も変わらないのではないか。。。。
そんな想像もしています。