最澄と空海が不仲だった理由
最澄と空海といえば
平安仏教の二大開祖だよね。
最澄のほうが空海よりも7歳ほど年上で、
ともに804年(延暦23)年の
遣唐使に従って唐に渡り、
仏教の奥義を学んで帰国した。
最澄と空海の関係性
先に帰国した最澄は天台宗を開き、
比叡山に延暦寺を建立した。
遅れて帰国した空海は真言宗を開き、
高野山に金剛峯寺を建てた。
最澄と空海はともに尊敬しあい、
しばらくは同志のような関係にあった。
既存仏教との対立
当時の仏教や僧侶は、
政治と関わり過ぎており、
最澄、空海、共にそのような既成の仏教界と
対立した新しい仏教だったので
共同戦線を張る必要もあったのだろう。
ところが、最澄と空海はしだいに不仲となり、
最後には最澄のほうから絶交している。
絶交するに至った理由には
諸説考えられている。
一つは、最澄が空海に
経典を借りたいと申し出たところ、
空海からにべもなく
拒絶されたというものだ。
でも、それくらいで絶交するもんやろか?
共に唐にまで行って勉強してきて、
新しい仏教を広めようとした同志やろー?
そうね、今から紹介する他の説の方が、
二人の仲違いの原因として有力なんじゃないかな。
弟子を奪われたから?
また、弟子を空海に奪われた恨みからと いう説もある。
最澄には、泰範という愛弟子がいて、
最澄は泰範の成長を願って、
空海のもとで修行させる。
そのうち、泰範は、
空海の教えに心酔し、
ついには最澄のもとへ帰らなくなった。
最澄にとっては、そのショックから、
空海を恨むようになったというのだ
また、最澄に弱みがあったからという見方もある。
密教を教えなかったから
密教の理解・体系化に関しては、
空海の真言宗のほうが
最澄の天台宗よりも進んでいたので、
最澄は空海に頭を下げて教えを乞うた。
空海は、一応の教えは授けたものの、
その奥義はいわば企業秘密であり、
すべてを明かすことはなかった。
そこで、最澄は
年長者のプライドを捨ててまで教えを乞うたのに、
すべてを教えてくれない空海に不満を抱いた。
それが憎しみに変わったという見方である。
唐で時間を投資してしっかり勉強したのは空海なんだから、
そりゃ企業秘密な部分はあっても仕方ないかもしれない。
でも、一緒に「新しい仏教を広めよう」という目標を、「自分の人気」よりも優先に考えていれば、それは正しくないかもしれないね。
でも、空海にも言い分はあるの。
最澄が密教に対して経典を読むだけで簡単に学ぼうとする姿勢が見えたから、密教の軽視と捉えられたという説もあるのよ。
ちなみにそのやりとりは、手紙で行われたと言われているわ。
手紙かあ。すれ違いみたいな所もあったんじゃないの?
やっぱ直接話さないと。
うーん、そういう考えもあるかもね。
案外、歴史上の人間関係だってそんなものなのかも。
何百年前の人でも、現代の人と同じような感情を持っているんだもん。