関ヶ原の戦いで三成挙兵後、家康が江戸に留まったのは、敵と味方の見極めのため
豊臣秀吉の死後、五大老と五奉行による政治が運営されていました。そして1600年、上杉景勝の家臣直江兼続による『直江状』による挑発が、関ヶ原の戦いのきっかけとなります。
東軍西軍共ににわか大軍だった
こちらの記事で、
関ヶ原で改易や転封、加増された武士たちのまとめを書きましたが、主要な武士だけでもこれだけの大名が集まった戦いです。
昨日の友は今日の敵とも言うように、本当の敵か味方かわかりません。チームワークなんて信用していいものか、同じ軍内にも駆け引きがあったのだと思います。
江戸滞留が勝負を分けた
江戸に留まり書状を送り続けた
石田三成が西軍を集めて家康打倒に燃えている時、家康は江戸城から動きませんでした。8月5日に江戸に入城して、およそ1ヶ月ほど江戸に留まっています。留まっていたというのも、全国の大名を巻き込んだ戦いですから、敵になるのか、味方になるのかの見極めに時間をかけていたと言えます。
この間に、色々な大名に書状を送っていました。寝返り要請の書状も送っています。
簡単に江戸を空けられなかった
西から石田三成が攻めてくる中、東からは上杉景勝も江戸を狙っていました。そのため簡単に江戸を空けられなかったことも江戸に留まった理由の一つです。その上杉を抑えていたのが、家康派の奥州の伊達政宗です。上杉にとっても伊達は厄介な存在です。結果として、伊達は上杉を、上杉は伊達を止めておくという役割を全うすることになりました。
まとめ
三成は官僚派(本人が合戦で戦って傷つくわけではない政治家)だった事もあり、武士たちからの人気はありませんでしたし、家康から西軍へのの寝返り要請の手紙もあり、結果として家康サイドの方が協力者が多い形となりました。
この記事でも書いたように、最後の決め手を打ったのは、西軍から東軍で寝返った小早川秀秋でした。敵・味方の分析に時間をかけた、家康の戦略勝ちと言えますね。
そして、仲間が多い方が勝つ。という事が分かるような戦いだったのではないでしょうか。
現代でも、同じことが言えそうな気がします。漫画「ONE PIECE」のルフィが理想のリーダー像に挙げられる理由と似ているのは、個人的な感想です!(^ ^)
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