ヤマト政権の外交と聖徳太子
遣隋使とは
はあ。。。文化とかもいいけど、、、なんかもっとこう派手な外交関係の話とかないの??
ヤマト政権の外交は、7世紀以降とても活発になっていたの。その一つが、600年に始まった遣隋使の派遣よ!ヤマト政権は、大陸の情勢の変化に対応するため、派遣を決めたの。
でも、第1回目の遣隋使の派遣は失敗に終わってしまう。なぜなら、隋の文帝(ぶんてい)から、外交ルールを心得ないものたちと見なされた。って中国の文献には書いてあるわ。
あ、また日本には文献が残ってなかったパターンのやつか。遣隋使門前払いになっちゃったのかよ。何かを改善しなきゃだね。
そこで、第2回目の遣隋使小野妹子の派遣(607年)の前に、冠位十二階の制(603年)や、憲法十七条(604年)などの体制が整えられたの。
へえ〜。そう言う流れを知ると、年号の順番も覚えやすいかもな〜。てことは、ヤマト政権が隋に国家として認めてもらった功績は、それらを定めた聖徳太子にあったということかな?
う〜ん。。。そこはちょっと微妙なところで、最近の研究では、聖徳太子の関与は疑問視されているの。
それに、聖徳太子の存在自体も、後世で付け足された幻っていう説もあるわ。
教科書的に言えば、厩戸王(うまやどのおう。聖徳太子のことね。)が、推古天皇の時代に蘇我馬子と協力して対外政策や中央集権国家の確率に尽力したと言われてるんだけどね。
いずれにしても、小野妹子が行った時は、ちゃんとした身なりと外交儀礼をもって隋の皇帝・煬帝(ようだい)との会見にこぎつけたのは事実ね。
でも、ここでも煬帝を怒らせてしまうことになったの。
それは一体なんなの!?
随に当てた国書の文章の中に書いてあったことが怒りの種になったわ。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
という言葉が、煬帝としては、ヤマト政権と隋が対等な立場にあるような書き方に感じられて気に入らなかったらしいわ。
ヤマト政権に、そのような意図があって書いたかどうかは不明だけどね。。。
怒りはしたけど、当時隋は、強大化しつつあった高句麗と対立してたから、倭国との関係を悪くしてはいけないと思って、小野妹子のことを受け入れた。。。こうして、遣隋使は第2回目にして成立したのよ。
遣唐使
統治国家が隋から唐になってからも、遣唐使として続いて行くんだよね。
うん。9世紀末に菅原道真の提案で廃止されるまで続いたの。その頃はもう、唐が弱体化しつつあり、渡航費用に見合うほど得られるものがなくなってきていたの。民間船も往来するようになっていたし。
それでも長く続いた遣唐使によって得たものは大きくて、倭国は政治システムや文化を吸収して、奈良時代、平安時代の政治と文化を作り上げていったのよ。
そして第5話は国内の事件についてです♡