戦国時代の群雄はそもそも何を目指していたのか?

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戦国時代の幕開け!どんな大名がいたのか?

前の話
【応仁・文明の乱】地方勢力の台頭
応仁の乱から戦国時代が始まるまで前回の話15世紀、東国が「プレ戦国時代」に突入し、西国で乱や一揆が多くなると、中央で大きな争乱が起きるのも歴史の必然だったといえるだろう。応仁の乱とは応仁元(1467)年、京都で応仁・文明の乱が勃発する。この

応仁の乱以降、各地で一揆や、

国人による下克上が広がっていた。

彩葉
彩葉

戦国時代の始まりね

戦国時代のリアル

応仁・文明の乱以降、

日本は一世紀を越える乱世の時代を迎える。

戦国時代が到来したのだ。

その時代の主役は、むろん戦国大名である。

戦国大名の目的は

戦国大名は、それまでの守護や守護大名とはタイプの異なる統治者だった。

戦国大名は、基本的に彼らを守ってくれる後ろ楯(朝廷や幕府)をもたなかったので、頼れるのは自らの実力だけだった。

生き残るためには、自国経済を豊かにし、

領民を隣国の侵略・略奪から守らなければならない。

戦国大名は戦い続けなければならず、

逆にいうと、戦えない戦国大名は滅びるしかなかった。

 

戦国大名のタイプ

戦国大名の第一号は、

小田原を根拠地とした北条早雲(伊勢宗瑞)と言われる。

 

彼は駿河の名家・今川家の縁戚であり

今川家を足場にして隣国の伊豆に進出、戦国大名化した。

 

その子孫は関東一円に勢力を築き上げ屈指の戦国大名となった。

 

北条早雲は、戦国大名としては変わり種の履歴の持ち主だが、

多くの戦国大名は、次の三つのタイプに分かれる。

①守護代から戦国大名

一つは、守護代が戦国大名化したケースである。

守護大名が領国を留守にしている間に、

留守を守っていた守護代が国人衆を味方につけ、

守護大名を滅ぼしたタイプである。

彩葉
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越後の上杉謙信、尾張の織田信長、越前の朝倉孝景らがこのタイプね

②国人からの下克上した戦国大名

二つめは、国人が守護大名や守護代を滅ぼし、

戦国大名に成り上がったケースである。

山陽・山陰の覇者となった毛利元就がその典型で、

陸奥の伊達稙宗(政宗の曽祖父)、土佐の長宗我部元親

彩葉
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のちに将軍となる徳川家康もこのタイプね

③守護大名から戦国大名に

三つめは、守護大名が戦国大名へと進化したケースである。

彩葉
彩葉

このケースは意外に少なく、薩摩の島津貴久、駿河の今川氏親、甲斐の武田信玄などです。

守護大名が下克上の中で生き残るためには、

自ら変わる必要があり、

それは下から成り上がる以上に困難な作業だったといえそうだ。

 

各地の戦国大名がひと通り出そろうと、

次は戦国大名どうしの潰し合いとなり、

トーナメント戦のような戦いを勝ち抜けた者が強力な戦国大名化した。

 

中日本から東国にかけては、

越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、

駿河の今川義元などが強大化する。

 

中でも、一時期最強と目されたのは今川義元だったが、

尾張の織田信長との桶狭間の戦いで敗れ、

勝った信長が一躍、戦国時代の主役に浮上する。

 

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