7世紀の国内外の大きな戦争まとめ
白村江の戦いとは
今日は何を聞くか知ってる?また中大兄皇子に関わる出来事なんだけど。
あ!また来るんすか!?
ま、とりあえず来てもらってるから!
(全く、人使いの荒い人たちだ。。。)とりあえずて。僕、一応天皇なんやけど。
あ!また来た!
固いこと言わない言わない♫
今日は、実はお兄さんの時代の対外戦争のお話を聞きたいの。
はあ。白村江の件ですか。
あれは、われわれ日本が仲良くしていた百済が、唐王朝と新羅の連合によって滅ぼされた事がきっかけでした。。。
当時、大化の改新後、政治をしていた私の元へ、百済の王子・豊璋(ほうしょう)から、日本に百済の復興を依頼されたのです。
それを受けて私たちは朝鮮半島への出兵を決めました。そして、あれは、その途中の出来事でした。
「あれ」とは、なんの事ですか??
、、、。
あれは661年、私の母である斉明天皇とともに筑紫にまで軍を進め、渡海の準備をしていた時の事なのですが、その地で斉明天皇が崩御してしまいました。
天皇不在のまま、日本軍は渡海したのです。
そうだったんですか、、、?それから、天智天皇として即位されたんですか?
いえ、実は天皇不在の状態が5年続いたのち、私が正式に天智天皇として即位したのです。
当時はまずその対外戦争やらなんやらあったこともあって。
へえ、白村江の戦いはどうだったんですか?
663年、日本軍は唐・新羅の連合軍に、白村江で完敗を喫しました。
あれは本当に強かったですよ。。。
本当にピンチで、勢いに乗った唐・新羅連合軍は日本列島にまで侵攻して来ると予想してましたので、本土の防衛に私は注力します。
九州には防人を置き、 筑紫には水城という防衛拠点を築きました。
加えて、それだけでは都の防衛が不十分であると見て、近江の大津宮に遷都もしました。
結局、大丈夫だったんですか?
そうですね。大丈夫といえば大丈夫でした。
と言っても、その後、唐と新羅が仲違いをした事が、日本が危機から脱した大きな要因になりましたね。
そしてその後はなんとか安定して来て、私も天皇としての役目を全うできましてね、長子を天皇にさせました。
私がお話できることはこのくらいです。では。
あざっしたー😆
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壬申の乱とは
、、、、
でもねーそのあとに一悶着あるんだなーこれが。
え、、、なんかあったの?
天智天皇が671年に没した後の、後継者争いよ。
それが、壬申の乱ってやつね。
え、まさか、長子が天皇に、、って言ってたけど、、、誰と誰の争いだったの?
うん。さっき言っていたように、天智天皇は長子の大友皇子を後継者としていたんだけど、天智天皇には大海人皇子という弟がいたの。
天智天皇が没すると、大海人皇子は挙兵し、東国の軍勢を集めて、大津宮を目指した。
長子の大友皇子は、西国の軍勢を集めて対抗しようとしたが、大海人皇子が勝利し、673年天武天皇として即位したのよ。敗れた大友皇子は、自殺しちゃったのよ。
そっか、、、中大兄皇子はその事を知らないから、長子の大友皇子が天皇になったと思っているけど、、、
本当は実の弟の大海人皇子が天武天皇として即位していたんだね。。
そう。そして、その天武天皇の日本の国家作りは、次の7話で勉強してね♡