白村江の戦い〜壬申の乱2018.08.022018.02.17スポンサーリンクブログ漫画TwitterFacebook0はてブ0Pocket0LINE7世紀の国内外の大きな戦争まとめhttps://history-wisdom.net/manga/taika-kaishin/7世紀の国内最大の出来事、乙巳の変と大化の改新について学んだタイムトラベルできる歴女・彩葉(いろは)とtazakiは、7世紀後半の国内外の事情を探っていく。目次白村江の戦いとは壬申の乱とは白村江の戦いとは彩葉今日は何を聞くか知ってる?また中大兄皇子に関わる出来事なんだけど。 tazakiあ!また来るんすか!?彩葉ま、とりあえず来てもらってるから!中大兄皇子(全く、人使いの荒い人たちだ。。。)とりあえずて。僕、一応天皇なんやけど。 tazakiあ!また来た! 彩葉固いこと言わない言わない♫今日は、実はお兄さんの時代の対外戦争のお話を聞きたいの。 中大兄皇子はあ。白村江の件ですか。 あれは、われわれ日本が仲良くしていた百済が、唐王朝と新羅の連合によって滅ぼされた事がきっかけでした。。。 当時、大化の改新後、政治をしていた私の元へ、百済の王子・豊璋(ほうしょう)から、日本に百済の復興を依頼されたのです。 それを受けて私たちは朝鮮半島への出兵を決めました。そして、あれは、その途中の出来事でした。 tazaki「あれ」とは、なんの事ですか??彩葉、、、。中大兄皇子あれは661年、私の母である斉明天皇とともに筑紫にまで軍を進め、渡海の準備をしていた時の事なのですが、その地で斉明天皇が崩御してしまいました。 天皇不在のまま、日本軍は渡海したのです。 tazakiそうだったんですか、、、?それから、天智天皇として即位されたんですか? 中大兄皇子いえ、実は天皇不在の状態が5年続いたのち、私が正式に天智天皇として即位したのです。 当時はまずその対外戦争やらなんやらあったこともあって。 tazakiへえ、白村江の戦いはどうだったんですか? 中大兄皇子663年、日本軍は唐・新羅の連合軍に、白村江で完敗を喫しました。 あれは本当に強かったですよ。。。 本当にピンチで、勢いに乗った唐・新羅連合軍は日本列島にまで侵攻して来ると予想してましたので、本土の防衛に私は注力します。 九州には防人を置き、 筑紫には水城という防衛拠点を築きました。 加えて、それだけでは都の防衛が不十分であると見て、近江の大津宮に遷都もしました。 tazaki結局、大丈夫だったんですか? 中大兄皇子そうですね。大丈夫といえば大丈夫でした。 と言っても、その後、唐と新羅が仲違いをした事が、日本が危機から脱した大きな要因になりましたね。 そしてその後はなんとか安定して来て、私も天皇としての役目を全うできましてね、長子を天皇にさせました。 私がお話できることはこのくらいです。では。 tazakiあざっしたー😆 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・壬申の乱とは、、、、彩葉でもねーそのあとに一悶着あるんだなーこれが。tazakiえ、、、なんかあったの?彩葉天智天皇が671年に没した後の、後継者争いよ。それが、壬申の乱ってやつね。tazakiえ、まさか、長子が天皇に、、って言ってたけど、、、誰と誰の争いだったの? 彩葉うん。さっき言っていたように、天智天皇は長子の大友皇子を後継者としていたんだけど、天智天皇には大海人皇子という弟がいたの。天智天皇が没すると、大海人皇子は挙兵し、東国の軍勢を集めて、大津宮を目指した。長子の大友皇子は、西国の軍勢を集めて対抗しようとしたが、大海人皇子が勝利し、673年天武天皇として即位したのよ。敗れた大友皇子は、自殺しちゃったのよ。 tazakiそっか、、、中大兄皇子はその事を知らないから、長子の大友皇子が天皇になったと思っているけど、、、 本当は実の弟の大海人皇子が天武天皇として即位していたんだね。。 彩葉そう。そして、その天武天皇の日本の国家作りは、次の7話で勉強してね♡ 大宝律令と平城京ができた理由大宝律令や平城京はなぜ作られた?壬申の乱に勝利した天武天皇は、律令などの法を整備していった。それまでは、豪族の寄り合いのような政権だったが、天武天皇は、天皇を中心とする統治体制や法、そして大規模な都をもつ国家への脱皮をめざしたのである。天武