武士は、どうやって成長したのか?
前回の話
承平・天慶の乱とは
承平・天慶の乱は、平安時代の中期のほぼ同時期に起きた、
関東地方での「平将門の乱」と瀬戸内海での「藤原純友の乱」の総称である。
承平年間(931〜938)、父の遺領をめぐり、
一族と争っていた平将門が、天慶2(939)年に関東で反乱を起こし、
その一方、瀬戸内では藤原純友が海賊を率いて反乱を起こしたのだ。
平将門は関東に独立国を築こうとし、自ら「新皇」と名乗った。
一方、藤原純友は大宰府を襲い、そこを根拠地にした。
二つの乱はともに鎮圧され、平将門は戦死、藤原純友は処刑されたが、東西でほぼ同時に起きた内乱に中央政府は震撼した。
長く続いた平安時代だったけど、ここから武士が台頭し始めます。
平将門の乱の背景
平将門の乱が起こった背景としては、
地方で土地をめぐる争いが頻発していたことがある。
地方にも有力な豪族が生まれ、彼らは朝廷や、中央の貴族に土地所有の保証を求めたが、中央政府は彼らの要求をうまくさばけなかった。
中央をあてにできないため、豪族らは自ら武装し始め、それが武士のルーツのひとつとなった。
武士たちはやがて棟梁(ボスとなる存在)を求めはじめる。
棟梁にまつりあげられたのは、名族の血をひきながら、
地方に下った者たちであり、天皇家の血をひく源氏と平氏がその代表となった。
源氏も平氏も地方の中心勢力として、武士を束ねていく。
前九年の役・後三年の役と藤原清衡
源氏の存在をより大きくしたのは、
11世紀後半に起きた前九年の役と後三年の役である。
当時、東北地方の日本海側は清原氏、太平洋側は安倍氏が治めていたのだが、まずは安倍氏が乱を起こす。
それが前九年の役で、源頼義・義家父子が清原氏の助けを得て、安倍氏を滅ぼした。
その後、清原一族の内紛から、後三年の役が起きる。
その際にも源義家が出陣、清原清衡の協力を得て乱を終息させた。
これにより、東国の武士団の間では、源義家の声望が大きく高まり、
源氏は東国を根拠地とするようになった。
また、源義家を助けた清原清衡は、藤原清衡と改名し、
平泉を中心に奥州に一大勢力を築く。
この藤原清衡が、後に平泉などの中尊寺を築き、
源義経をかくまうことになる奥州藤原氏の初代になるのよ。
へえ〜、前九年の役、後三年の役で台頭したわけだね!
藤原純友の乱の背景
実はこの『藤原純友の乱』については
『将門記』のような史料が全く残ってなくて、
様々な説が出回っているの。
一説としては、元々現地で暴れまわっていた海賊たちを
抑えるために派遣された藤原純友が、そのまま暴れまわってしまったという説もあります。
激しいな!!!