朝鮮出兵と秀吉の思惑とは?
文禄元年、豊臣秀吉は150,000人の軍勢を朝鮮半島にもたらせました。これが朝鮮侵略の始まりで、一旦中止された後、慶長2年に再開されています。
日本は進撃を続けていましたが、明が朝鮮に加勢し、朝鮮水軍の活躍もあり、戦争はこう着状態となった。その後、豊臣秀吉が没すると日本兵は撤退しています。
朝鮮出兵はなぜ行われたのか
秀吉が朝鮮出兵をしようとした理由は諸説ありこれといった定説は実はありません。
一説には秀吉は明を征服するために出兵したと言う説。恩賞を欲しがっていた部下の武将たちを満足させるために戦いを起こしたと言う説もあります。
さらに、ヨーロッパの国々が東アジアに侵入してくるのを防ぐためと言う説、織田信長が当初構想していたことを秀吉が引き継いだという説もあります。
朝鮮出兵がもたらしたのは?
この朝鮮出兵は朝鮮半島に大きなダメージをもたらし明王朝の崩壊の原因の1つにもなりました。それと同時に豊臣政権を崩壊させる原因の1つにもなりました。この朝鮮出兵が、関ヶ原の戦いのきっかけにもなったのです。
なぜならば朝鮮出兵によって、豊臣政権内に2分に割れるヒビが入りました。それが、石田三成に代表される文吏派と、加藤清正や福島正則といった武闘派です。
結果的に、これらの武闘派は、関ヶ原の戦いでは家康の東軍に加担し、東軍の勝利をもたらします。
『関ヶ原』の映画を観てみると、石田三成はまっすぐで、少し不器用ながらも己の信念を貫き通すような良い男ですが、実際のところはかなりの嫌われ者だったというような話をよく聞きますね。。