なぜ南北朝という複雑な状況が生まれた?
建武新政は、後醍醐天皇のワンマン政治だったので、
大多数の武士はたちまち不満を抱きはじめ、
新たなボスを求めはじめる。
その筆頭となったのが、
六波羅探題を滅ぼした足利尊氏(高氏からの改名)。
足利尊氏は武士たちの声に押されて、
反後醍醐天皇勢力の頭目となる。
足利尊氏がその立場を鮮明にするきっかけは、
建武2(1335)年に起きた中先代の乱である。
最後の執権だった北条高時の子・時行の起こした乱であり、
足利尊氏は天皇に討伐の許可と征夷大将軍への就任を求めた。
天皇はこれを拒否するが
それにもかかわらず尊氏は軍勢を進め、乱を鎮圧した。
これを境に、
足利尊氏 VS 後醍醐天皇の戦いが火蓋を切る。
足利尊氏と後醍醐天皇の戦い
足利軍はまず天皇側の新田義貞軍を
箱根竹の下の戦いで破る。
続いて京都に進軍、占拠するが
奥州から駆けつけた北畠顕家の軍勢に敗れて、
いったんは九州まで落ち延びる。
足利尊氏は九州で勢力を蓄えて西上し、
湊川の戦いで楠木正成軍を打ち破り、正成を自刃に追い込む。
足利軍の勢いに後醍醐天皇は降伏し、
三種の神器(日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣)を手放すが、
隙をついて吉野(奈良県)に逃走。
そこを新たな根拠地とした。
とりあえずの勝者となった足利尊氏に必要だったのは、
自らの権威を保証してくれる新たな天皇だった。
尊氏は、持明院統の光明天皇を即位させ、
同時に建武式目を発表し、これにより室町幕府が事実上成立した。
尊氏は暦応元(1338)年に征夷大将軍に任じら れている。
南北朝時代の始まり
ただし、それは奇妙な時代の始まりでもあった。
京都には足利将軍家の擁立する天皇(北朝)
吉野には後醍醐天皇(南朝)がいる。
二人の天皇が並立して存在する
南北朝時代が始まったのだ。
その後、戦況はさらに複雑化していく。
足利側が二つに分かれたからだ。
それまで足利尊氏を支えていたのは、
弟の直義と執事の高師直(こうのもろなお)である。
直義は保守的な統治者であり、
師直は下克上的な武将だった。
その二人が対立し、やがて尊氏と直義の兄弟対立にも発展した。
足利三強はそれぞれが軍を率いて戦い、
自らを有利に導くためには、南朝とも同盟関係を結んだ。
結局、直義が高師直を殺害、その直義を兄・尊氏が毒殺し、
足利尊氏はなんとか権力を持ちこたえた。
その一連の戦いを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ぶ。
歴史上最大の兄弟喧嘩と言われているわ