源頼朝の鎌倉政権はどれほど強かったのか
源義経が平氏を滅ぼしたあと、源氏のトップをめぐって権力争いが起きる。
平氏を打倒するにあたって軍事的に最も活躍した源義経と、その兄・源頼朝による対立だ。
後白河法皇は、最大の功労者の源義経を、
頼朝の対抗者に仕立てようと画策する。。。
源頼朝の力を削ぎ、あわよくば源氏の共倒れ、、、
それによる朝廷の復権を狙ったのだ。
二人の対立は後白河法皇が共倒れを期待して画策したんだね。
頼朝と義経の対立
後白河法皇は、義経に頼朝追討を命じた!!
・・・・
ところが、武士たちは、後白河法皇の思うようには動かなかった。
え、天皇の命令を聞かないの??
彼らは、義経ではなく、頼朝こそ源氏の長・武門の棟梁であると考え、頼朝のもとに集結。
私の元には集まってくれるのです。
誤算を悟った後白河法皇は、今度は頼朝に義経追討の院宣を与える。
この誤算によって、後白河法皇は源頼朝につけ込まれるスキを与えてしまう。
文治元(1185)年、頼朝は後白河法皇に迫って、義経追討を理由のひとつとして、全国に守護と地頭を設置する権利を認めさせた。
これにより私は、当時の権力の源泉である土地領有を保証する権限を握ったのです。
土地の所有こそ権力
当時は、土地の領有の裁定権こそが、権力者の力の源だった。
それを考えれば、この時点で武家の源氏が、朝廷・貴族から権力を奪取したといっていい。
そこで近年では、 鎌倉時代は、1192年からではなく、この1185年に始まったと考える研究者が増えているのよ。
このあと、後白河法皇の死後の建久3(1192)年、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられる。
それは、源頼朝の権力を追認するものであったといえる。
以後、武家の棟梁は、徳川幕府に至るまで、このポストを最高権力の象徴と見なすようになる。
義経は奥州へと追われた
なお、義経は頼朝との権力争いに完敗し、追われる身となる。
義経は、奥州平泉に王国を築いていた藤原秀衡(ひでひら)を頼る。
奥州に一大勢力を築いた藤原清衡が1代目、2代目の基衡、そして3代目が秀衡です。
秀衡は義経を保護するものの、秀衡が没すると、
藤原氏に対する頼朝の圧力は一段と高まり、
秀衡の子・泰衡(やすひら)は義経を殺害する。
それでも、源頼朝は藤原氏を許さず、討伐にかかり、
文治5(1189)年、藤原氏を滅亡に追い込んだ。