乙巳の変と大化の改新の違い
乙巳の変とは
飛鳥時代の外交についてみてきたけど、、、この時代の最大級の事件といえば、、、何でしょーーー???
それは、僕でもわかるやつだろう多分。645年の、大化の改新だ!!!
ピンポーン(^_^)んじゃあ、教科書には、大化の改新(乙巳の変)って書いてあるけど、この違いは???
今日はそういうパターンのやつね。単なる言い方の違いじゃないんだろうなあ。
そうだね。じゃあまず、一般的な乙巳の変と大化の改新の解説をしてもらうね〜♡
中大兄皇子(天智天皇)さん、よろしく〜♡
(もはやご都合主義で流れもくそもないやないかーい。)
(tazaki くんそれは仕方あるまい。)
ゴホン、では、君たちが使っている教科書的にご説明しましょう。
まず乙巳の変はですね、私中大兄皇子、そして同志の中臣鎌足と共に起こした、クーデター事件とでも言いましょうかね。
そして、その後に色々と変革をしたのですが、それらが大化の改新と呼ばれていますね。
なぜ大化の改新は起きた?
なんで、乙巳の変を起こそうと思ったのですか?
全ては、朝廷の指揮をとってくださっていた聖徳太子さんの死(622年)から始まりました。。。
彼がいなくなったことで、その後、蘇我氏の専横はひどいものでした。
もう止める人がいないので独裁状態でした。崇峻天皇ですら、それに不満を抱いて対抗しようとすると、蘇我氏によって暗殺されてしまいました。
このままではいけないと思い、私と鎌足さんとで立ち上がり、蘇我入鹿を暗殺、そして入鹿の父・蝦夷を自殺に追い込み、蘇我氏の本宗家は滅亡しました。
おお〜、さすが!!!
その後、皇極天皇が退位して、弟の孝徳天皇が即位しました。
改新の詔が出され、土地制度の改革に主眼が置かれました。王族や豪族による土地の私有を禁じ公地公民制も構想しました。
さらに、戸籍をつくり班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を行いました。
この時期、日本は中国の唐王朝を手本とした中央集権的な律令国家を目指していたのです。。。。。
まあ、大まかにはこんなところですかね。それでは、私はこの辺で。
ありがとうございました♡じゃあ、また来週もヨロシクね〜(^_^)
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『日本書紀』で読んだ話と、だいたい同じだったわ〜。
でも私はちょっと、疑問も残ってるんだけどね。
え、そうなの??どこが??
うん。
大化の改新を伝える主要な史料は『日本書紀』で、大化の改新を進めた孝徳天皇の時代に出されたとされる語文は記録されているんだけど、、、
それが本当に孝徳天皇の時代のものなのかどうか、実際は真偽不明なの。
それに、大化の改新が目指した律令体制が進められたのは、この時代ではなく、 三年くらい後の天武天皇の時代からだからね。
ふーん。時系列的に不明な部分があるのか。
でも、とりあえずは、日本書紀は孝徳天皇の時代に出たと言われているってことで覚えておくよ。
大化の改新の結果
それでも、乙巳の変が後世に大きな影響を及ぼしたことはたしかで、その影響の一つに藤原氏が台頭したことね。
中大兄皇子の仲間だった中臣鎌足は、のちに藤原氏に改姓、彼の子孫である藤原氏は、やがて天皇家の外戚として権力を欲しいままにしたの!!
その意味では、乙巳の変は、蘇我氏の権力独占から、藤原氏の権力掌握への転換点だったのかなあ。
そっか。。。
結局、いつの時代も力がある者が権力を奮ってしまうのだろうか。。。その権力者が入れ替わっただけなような気が。。。
藤原氏はその後何百年、そして現代まで、歴史に大きく影響を及ぼすことになるわ。全てはこの藤原鎌足の次男、藤原不比等がはじめなの。
続きの第6話で勉強してね♡