織田信長が浅井長政に裏切られた理由は?

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織田信長と同盟を結んだ浅井長政の裏切りはなぜ起こった?

織田信長の強力な同盟者と言えば、徳川家康と、浅井長政が有名です。元々は織田から浅井へ同盟が持ちかけられたのですが、この同盟は決裂してしまいます。

そこには浅井の苦悩がありました。

近江の浅井長政とは?

浅井家の3代目にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもち、浅井家の全盛期を築きました。しかし、信長との同盟の決裂後に、織田軍との戦いに敗れて自害してしまいます。

同盟を結ぶ

1564年、尾張を中心に勢力を伸ばしていた織田信長が美濃の斎藤氏を牽制するために、同盟を持ちかけました。

浅井家の家臣たちは、古くからの盟友朝倉義景と織田信長が不和であることから反対するものも多くいたそうです。織田信長の妹で絶世の美女とうたわれたお市の方を長政の妻とし、織田家と浅井家は婚姻関係によって同盟を結びます。

信長が美濃を制し、将軍・足利義昭を奉じて京都入りできたのも、浅井長政が近江を抑えていたからこそです。浅井は、信長の天下取りを支えていくものと思われていた矢先、事件は起こります。

実は裏切ったのは信長の方だった

1570(元亀元)年、信長は、同盟を結ぶ際に長政と交わした「朝倉氏を攻めない」という約束を破り、徳川家康と共に越前の朝倉方の城を攻め始めたことでした。元々信長と朝倉氏は不仲だったこともあり、このような条件をつけて浅井は信長と同盟を結びました。

しかし、足利義昭の下へ参内せよという命令を朝倉氏に無視し続けられ、ついに信長は朝倉家討伐のための挙兵をしたのです。

板挟みになるも、朝倉氏側についた浅井

浅井長政は、妻の兄であり同盟相手の織田信長と、古くから親交があり六角氏との戦いにおいて恩がある朝倉氏の間で板挟みとなってしまいます。

知略と言われた浅井長政でも、信長が同盟の条件を破ったことをすぐには信じることができないほど動揺し、相当に悩んだと言われます。

結果、家臣の後押しもあった浅井氏は、六角氏との抗争中に支援を受けていた朝倉氏への恩を仇で返すことはできずに、朝倉氏側につくことになります。

結果として、信長との同盟を裏切った形になりましたが、先に約束を破っていたのは信長の方でした。

別の説も

また別の説では、織田信長の勢力が強大になりすぎることを恐れて、浅井・朝倉連合軍で天下を狙っていたという説もあります。

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