二人が日本に築いた新たな宗教世界とは?
空海と言えば、今映画でやってるよな〜
空海と最澄
ともに平安遷都から10年後の延暦23(804)年
遣唐使船に乗って中国大陸に渡り、最新の仏教を持ち帰った。
彼らが持ち帰った仏教は、奈良仏教とは異なるものであり、
奈良仏教を嫌って遷都した桓武天皇は、
新たな仏教を新鮮な思想として受け入れた。
前回の話では、桓武天皇が、道鏡の時代ように仏教が政治に入り込みすぎている事を嫌って、平城京から長岡京へ遷都したんだよね。
桓武天皇は空海と最澄を保護し、
二人は日本に新たな宗教世界を築いていく。
最澄の天台宗
まず、最澄は、滋賀県大津市である近江国に生まれた僧侶です。
比叡山で修行を積んでいた時に、桓武天皇の命によって遣唐使として唐に渡る。
唐で法華経を中心とする天台の教えを受けて帰国した後、
比叡山延暦寺を根拠地に天台宗(法華経学、密教、戒律、禅を兼修する仏教)を開く。
天台宗は、仏教の中でも2大宗派の内の大乗仏教に当てはまります。
大乗仏教とは
「人は誰でも仏になれる。人間の他に、この世の全てのものが仏になることができる」
という考え方で、
「多くの人々を理想である彼岸へ運ぶことのできる大きな乗り物である。」
という意味が、その名の由来と言われています。
天台宗が革命的だったのは、当時のそれまでの日本で主流だった法相宗は、
人は生まれた家柄によって仏にもなれる人もいれば、なれない人もいる
という教えだったから。大乗仏教とは相反する考え方だったのである。
そっか〜。どんな人でも大丈夫!!身分が低くても大丈夫な大乗仏教(だいじょうぶっきょう)!と覚えよう〜っと。
まあ、覚え方は自由じゃない。笑
空海の真言宗
空海は、諸説あるが20代で出家し修行をしていた頃に、遣唐使として渡ることが決まる。
唐より帰国した後に密教を持ち帰り、大乗仏教の一つでもある真言宗を開く。
仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、
空海は、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。
密教とは
密教は、当時の日本にはなく、
最澄も十分に学んでいなかった。
空海の真言宗は、独特の神秘性を持ち、加持祈疇(かじきとう)に現世利益や
救済の側面があったことも、人々を引きつけ、最澄の天台宗を人気で上回った。
最澄は早くに唐から帰国したため、密教を取り込む時間がなかったんだって。
その点、空海は密教に対して時間をかけてしっかりと学んだおかげで、最澄より人気を得たのね。
せっかく唐までわざわざ行って勉強したなら、最澄も密教までみっちり勉強したらよかったのにね。
中途半端は一番もったいないよな。
最澄と空海の不仲説
最澄と空海は当初は仲がよかったが、
空海が密教ブームの主役になると、最澄が反発して疎遠となり、やがて両者は敵対関係となっていく。
最澄ものちに密教を取り入れ、彼の根拠地・延暦寺は日本仏教の中心地になっていく。
空海、最澄が生きた時代から9世紀の末ごろまでは、
「弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)」と呼ばれる。
弘仁・貞観文化
弘仁・貞観文化の特徴
密教文化の影響を受けていることで、曼荼羅が多数制作された。
神仏習合(古来の神道と仏教が混淆し一つの信仰体系として再構成された宗教)の考えが広まった時期でもある。
三筆とは
また、遣唐使が続いていたので、
唐風文化がもてはやされた。
唐風の書が人気を集め、嵯峨天皇、空海、橘逸勢が「三筆」と讃えられた。