西南戦争の勃発。なぜ起きたのか。

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士族の反乱はなぜ起こったのか

明治維新の始まり
明治新政府樹立までtazakiついに文明開花の幕開けです前将軍・徳川慶喜は西郷隆盛や岩倉具視らによって追い詰められ、西郷の挑発に乗る形で、ついに軍事行動を起こす。戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い慶応4(1868)年、旧幕府軍は大坂から京都に向かう途
tazaki
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明治初期のもう一つの大きな戦争が西南戦争です。せごどんでも活躍する西郷隆盛が最期を迎える戦争でもあります。

明治4(1871)年、明治政府は明治維新のひとまずの仕上げに取りかかった。廃藩置県を行ったのである。

廃藩置県

江戸幕府を打倒したとはいえ、まだ国内には約300の藩が残り藩のトップには藩主がそのまま横滑りしていた。

藩があるかぎり中央集権化は進まず国家としての力を集結することはできない。

そこで明治政府は藩を県に置き換え 県知事に中央から役人を送り込み旧藩主らの権力・特権をすべて奪うことを計画した。

 

廃藩置県の実行に当たっては、旧藩主やその側近の抵抗が予想されたので、西郷隆盛、 大久保利通らはひそかに事を進め東京に兵力を集めておいたうえで一気に決行した。

 

すると、旧藩主たちは意外なほどに抵抗せず、藩から県への移行は、予想を超えてすんなりと進んだ。

tazaki
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なぜ新体制をすんなり藩主たちは受け入れたんだろう??

 

その背景には、すでに多数の藩が窮乏し旧藩主にはその座を投げ出したい者が少なからずいたことがある。

彩葉
彩葉

旧藩主たちも継続がしんどかったり、新体制に賛成だったりしたわけね

 

あるいは中央集権化の意味を理解し政府に協力した者もいた。だが廃藩置県や文明化の反動は、やがてやってきた。

日本各地で、士族の反乱が相次いだのである。

士族の反乱から西南戦争へ

明治政府の方針、あり方にはかつて倒幕に協力した者にも不満を抱く者が少なくなかった。不満を持つ各地の士族は、明治政府の官職を離れて下野した実力者を担ぎはじめた

tazaki
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つまり西郷のことだよね

いわゆる征韓論論争に敗れた西郷の下野をきっかけにして鹿児島には西郷を慕う者が集まり一種の独立国の様相を呈していた。

 

明治10(1877)年、西郷は周囲に担がれる格好で挙兵、西南戦争が勃発する。

 

西郷の挙兵は新政府にとって最大の脅威であり政府倒壊さえ噂された。西郷軍は北上したが、熊本城で政府軍の抵抗にあい進軍速度を鈍らせたのち田原坂の戦いで新政府軍に敗れる

半年以上にわたる激闘のすえ、西郷は自殺、反乱は終息した。

 

https://history-wisdom.net/human/saigo-takamori-life/

 

西郷軍の敗北は、士族の敗北と、おもに農民からなった徴兵軍の勝利を意味した。不満を抱く士族らはもはや武力で勝てないことを悟り、言論活動に闘争の場を見つけていく。

 

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憲法が発布されるまでの紆余曲折とは?彩葉日本が政治的に近代化していくうえで、大きな節目となったのは、憲法の制定と議会の創設です幕末に結んだ不平等条約を改正し、欧米と対等な関係を結ぶためにも、欧米のような立憲体制を整えることが必要だった。立憲