源頼朝に挙兵を決断させた「父のドクロ」とは

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人物
この記事の所要時間: 353

伊豆で出会った僧・文覚が取り出した父・義朝の骸骨

 

源頼朝
源頼朝

私・頼朝が挙兵して鎌倉幕府を開くまでに、こんな裏話がありました。

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伊豆へ流された源頼朝と文覚の運命の出会い

平治の乱に初陣して敗れ、伊豆蛭ヶ小島に流された源頼朝。

頼朝はそこで3年間という長い期間をすごし、

1180年に平氏討伐を目標に掲げ挙兵。

tazaki
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その経緯や前後の流れはこちらの記事参考で!

源平合戦
どのような戦いが繰り広げられたのか? 前回までの話 彩葉 平清盛の台頭で、彼が太政大臣になるも、貴族的な外戚戦略が嫌われ、平氏政権に反発する貴族や武士は、やがて打倒平氏を画策するようになったのよ。 ...

その挙兵の影には、ひとりの僧の存在があった。

その僧とは、真言宗の僧・文覚

彼はもともと殿様の雑役を務める侍だった。

そして出家後には、全国の山や寺で修行や荒行をこなしてきたという。

このような特異な生き方からか、文覚は不思議な説得力を備えた修験僧として知られるようになる。

 

『平家物語』や『福原院宣』によると、

その文覚が頼朝と出会ったのは彼が伊豆に流されたときのこと。

文覚は神護寺再興を後白河法皇に強要したために伊豆に流されていた

説得に応じない頼朝への最終兵器は親のドクロ

文覚は、そこで平家打倒の挙兵を強く頼朝に促す。

これほど文覚が平家打倒を訴えたのには、その時代の国家仏教の時代背景が窺える。

 

当時、文覚は

文覚
文覚

仏法と政治は結びつきあうことで互いに栄える。

という思想を持っており、

法皇の仏教に対する信仰も篤かったのだが、

清盛がその法皇を幽閉してしまったために

文覚にとって平家は仏敵だったようだ。

 

頼朝に出会った文覚は、

文覚
文覚

早く謀反を起こして全国を治めなされ!

といって説得し始めたが、

頼朝はすぐに首を縦に振ろうとはしなかった。

 

源頼朝
源頼朝

自分の罪が許されない限り平家に謀反を起こせない。

というのだ。

そこで文覚は、懐から白い布に包まれたある物を取り出した。

それはなんと頼朝の父・義朝のドクロだったのだ。

文覚は

 

文覚
文覚

あなたの父の頭です。

これを首にかけてずっと山や寺で修行してきました。

義朝公はあなたが立ち上がるのを願っております。

あなたの流罪の許しをお願い申し出て、院宣を頂戴してきます。

 

といい残して京都との間をわずか7日間で往復して

法皇の院宣を持ち帰ったといわれている。

頼朝を納得させた文覚の説得術

しかし、たった1週間でその距離を往復し、

院宣を受け取って帰ってくることは明らかに難しい。

そのためこれらは「福原院宣」の作者による虚構とされてい るが、

頼朝が挙兵するのにあたり文覚の説得が

大きなきっかけとなったことは確かなようだ。

 

数々の修行を乗り越え、巧みな説得術を身につけた文覚。

後白河法皇への神護寺再興の申し出は失敗したが、

頼朝への説得は成功に終わったようである。

 

頼朝を挙兵させた文覚のその後

こうして頼朝は平家打倒の挙兵を決意、源平合戦、治承・寿永の乱が起こる。

源平合戦
どのような戦いが繰り広げられたのか? 前回までの話 彩葉 平清盛の台頭で、彼が太政大臣になるも、貴族的な外戚戦略が嫌われ、平氏政権に反発する貴族や武士は、やがて打倒平氏を画策するようになったのよ。 ...

文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受け、

各地の寺院を修復して回ることとなった。

 

その後の戦いの結果として平氏は滅び、源氏の世がやってくる。

しかし、頼朝の挙兵から2年後の1199年、

征夷大将軍としてこの世の春を謳歌していた頼朝もついに死去

 

すると文覚は後鳥羽上皇から謀反の意志ありと疑われてしまい、

1205年には対馬へと流罪されるハメになる。

 

彼の寺領はことごとく院の近臣や女房にわけ与えられてしまい、

そのころ没頭していた神護寺の復興事業も、

志半ばで中断せざるを得なくなってし まった。

 

結局、そのまま客死した文覚。

一世一代の説得術で強い結びつきを持った頼朝との関係こそが、

彼の生命線だったというわけだ。

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