【越後の龍】上杉謙信の本当の死因とは

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上杉謙信の急死は信長による暗殺!?

1578年3月、軍神と謳われた上杉謙信がこの世を去りました。近年の研究では、死ぬ間際まで行っていた遠征準備は、関東侵攻のためとも、織田信長打倒のためとも言われているが、真相は未だにわかっていない。死因は、病死説や、暗殺説など諸説がありますが、真相は謎のままです。

死因の様々な説

病死説

急死と言うこともあり、脳卒中が濃厚です。高血圧糖尿病アルコール依存症などの生活習慣病も示唆されます。また、過度の酒量による胃や、食道系ガンの可能性もあります。当時の上杉謙信の生活状況からすれば、病気を患っていてもおかしくはないと言われています。

ただ、偶発的に訪れた死とするには、ある人物にとって、あまりにもタイミングが良すぎるという声もありました。

暗殺説

織田信長による暗殺?

上杉謙信のこの死で、明らかに得をした人物がいます。その人物こそ、全国統一間際の織田信長でした。『第六天魔王』と呼ばれた信長も【軍神・上杉謙信】には恐怖していました。上杉謙信急死の前年、上杉軍は「手取川の戦い」で、信長軍に大勝を収めています。

その時、上杉謙信は本願寺顕如、武田勝頼とともに、【反・信長包囲網】を築き上げており、信長にとって脅威の存在となっていました。

それまで上杉謙信とまともに戦ったことない信長は、この戦いにて、屈強な越後勢を率いる【軍神】の強さを思い知ったのでしょう。

1577 年 12 月、居城に帰還した上杉謙信が、すぐに次の遠征準備を始めたことを知った信長は、身の危険を感じ刺客を送り込むーーーそして機を見計らって暗殺したのではないかーーー。それを裏付ける証拠等はないが、上杉謙信の死因が語られない以上、十分にあり得る話です。

もし上杉謙信がこの時に死なずに信長に戦いを挑んでいたら、時代の行く末も変わっていたかもしれません。

息子景勝による暗殺説

もう一つの暗殺説は、家督を狙った息子の上杉景勝による暗殺です。謙信の死後、御館騒動の準備が万端すぎたため、景勝という線もあり得るのではないかと言われています。

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