吉田松蔭式!名言・姿勢・知行合一に学ぶ人材教育の3つのポイント

人物

吉田松陰

日本史、いや世界史上、これほどまでに数多くの偉人を教育した人間はいないのではないでしょうか。たくさんの支持を集めた人間なら世界中にいるだろうが、

支持を集めて → 教育をして → 実際に歴史に名を残すほどの人材に育て上げる

ここまでやれた人物がいただろうか?その点において、は、吉田松陰はトップクラスであると言えます。そこで、企業などでの人材教育にも活かせる部分があるのではと思い、

吉田松陰教育の3つのポイントをまとめました!

  1. 長所を伸ばす・・・全部が平均的な人間に育てても意味ありません
  2. 知行合一・・・あなたが行動で、背中でまず示しているから、説得力が生まれる。
  3. 誰でも受け入れ、共に学ぶ・・・教育者も学び続ける。

この3つに絞って、詳しく書いていきます。

、、、個人的には、大河ドラマ「花燃ゆ」を見てさらにファンになりました(笑)。ドラマでも、伊瀬谷祐介演じる寅次郎、こんな先生、リーダーだったらついていける、この人から学びたいと、当時の塾生たちも思ったのではないでしょうか。

吉田松蔭の私塾、「松下村塾」の著名な門下生には、

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖と、そうそうたるメンバーです。後の総理大臣が二人もいます。一体どうしたらそんなに優秀な人間を育て上げられたののか。

元々才能のある人間を集めたわけではないのに、です。

松下村塾は、身分に関わらず誰でも入れたのですから。しかも、実質2年しか松下村塾で吉田松陰の教育は行われていません。会社でも、たった2年で人を育てるって簡単なことではありません。

そんな吉田松蔭とは、一体どんな「教育者」だったのかを、調べてまとめてみました。まずは生い立ちからです。

ー生い立ち・人物ー

長州藩の下級武士の家に生まれ、幼少の頃から勉学を叩き込まれ励んできた。ダントツで優秀な成績で、11歳の頃には、藩主相手に講義をする側になり、19歳で藩校。明倫館の兵学師範として講義をしていた。。。その後、江戸の伝馬町で投獄され、西洋文明を学ぶために伊豆下田沖に停泊していたペリー艦隊に乗り込み密航しようとするが失敗、幕府から目をつけられてしまいます。

長所を伸ばす教育

高杉晋作の教育

吉田松陰は、人の「良いところ」を伸ばすようにしていました。久坂玄瑞と並ぶ、松下村塾の二大巨頭の一人・高杉晋作

彼は奇才とも言われるほどの能力、創造性を持っていた人物だったが、気性はかなり荒っぽく、自信も過剰で目上の人間の言うこともなかなか聞かない頑固さを持った人間でした。桂小五郎(木戸孝允)もその性格には手を焼いていたと言います。

しかし、吉田松陰はそれを短所と捉えず、彼の良さだと判断したのでしょう、それを矯正しようとはせず、そのまま伸ばそうとしました。

そのために、高杉の負けず嫌いな性格を考慮し、一つ年下でありながら、誰もが認める学問の才能を持っていた久坂玄瑞をライバルに仕立て上げました。

もちろん自分に自信を持っている高杉は、年下に負けるかと勉学に励みます。結果として高杉は、松蔭も驚くほどの成長を見せたと言います。その後この二人は、松下村塾の双璧と呼ばれるほどに才能を開花させ、二人の友情も芽生えたと言います。

知行合一

知行合一(ちぎょうごういつ、ちこうごういつ)は、中国のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。・・・

王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、知っている以上は必ず行いにあらわれると述べた。(wikipwdiaより)

 

「学者」になってはいけない。人間、実行が最も大事である

松蔭は、この知行合一を徹底しており、学問とは学ぶだけではなく、実行に移してこそであると教えていました。

そして、

「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなし」(孟子)

誠を尽くせば、心が動かない者はいない。と言う意味です。孟子の言葉ですが、松蔭は塾生に頻繁に説いたと言います。

脱藩

嘉永4年(1851年)3月、参勤交代に同行し、江戸で佐久間象山に出会います。

宮部鼎蔵らと、「海防」などの勉強するための東北旅行を計画しますが、藩からの許可(関所通過書)がおりませんでした。しかし、「友との約束は破れない」という一心で、松陰は重罪であった「脱藩」をします。

密航未遂

また、有名なペリー来航(嘉永6年6月)の時は、多くの志士たちと同じように世界の中の日本に対して危機感を覚えます。

その後、重罪であることを知りながらも、海外の技術や文化を学ぶために海外渡航のチャンスを窺っていた松蔭は、下田に停泊していたポーハタン号に小舟で乗り込み、マシュー・ペリー提督らに密航を訴えています。日米和親条約を配慮され、密航は拒否されましたが、この行動力は長らく語り継がれることとなります。

要撃隊を作る

松下村塾で教えを説くようになっても、自ら行動することをやめませんでした。当時の幕府の老中が、朝廷を取り締まろうとし、松蔭はこれに大反対します。当時の老中間部詮勝の暗殺を計画し、要撃隊をつくり、藩を驚かせました。

しかしこの行動が結果的には危険視され、二度目の野山獄幽閉をされます。常識に捉われない行動力が伺えます。

身分隔てなく受け入れ、共に学ぶ姿勢

活発な議論を交わす

松下村塾は、身分に捉われず、誰でも学ぶことができました。学習内容は、ただ書物を読むだけではなく、時事問題に関する松蔭との議論も活発に行われていたと言います。

議論の形式にも工夫が施されており、塾生が他の大勢の塾生に向かって講義を行ったり、課題の添削にも、一人一人に丁寧に添削を行っていました。もちろん議論には松蔭も参加します。決して口うるさく口出しはせず、塾生が参加意識を持てるようにしていたが、

ただ教えるのではなく、共に学ぶという謙虚な姿勢には、変わりはありませんでした。

牢獄でも、囚人に先生をさせ、学び合っていた

密航の失敗で幕府に目をつけられた松陰は、野山獄へ幽閉されることになってしまいます。囚人たちの間では彼がとんでもない天才だということはすぐに知れ渡ったようですが、松陰は他の囚人たちともすぐに仲良くなりました。

威張ることのなく、彼ら一人一人に尊厳を持って接したからです。誰もが人としての価値があることを説き、それを繰り返し伝え続けたからです。そして獄中を学び合いの場に変えてしまいます。それは、囚人たちの得意分野を見つけ、各自に先生をやらせたからです。

ここでも松陰は自分も学ぶ側にもなりました。「全員が生徒であり、全員が先生でもある学び合いの場」を作ってしまったのです。松陰は四書五経を教え、その代わりに俳諧や書道などを教わりました。この場には、囚人だけでなく、牢番やその兄弟なども参加していました。「巻き込む力」がすごいです。

吉田松陰式教育、3つのポイントまとめ

  1. 長所を伸ばす・・・全部が平均的な人間に育てても意味ありません
  2. 知行合一・・・あなたが行動で、背中でまず示しているから、説得力が生まれる。
  3. 誰でも受け入れ、共に学ぶ・・・教育する側も学び続ける姿勢。

いかがでしたでしょうか?こんな人からなら、学びたいって思いませんか?もしそう思ったら、部下がいるのなら、あなたがそんな教育者になってあげてください!^ – ^

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