居城の移転から見る、織田信長の歴史

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人物
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信長の居城移転の歴史は、天下布武への軌跡だ。

信長が転々と城を変えたのは、新たに制圧した城に住み、そこを攻撃の最前線にするという狙いがあったためです。つまり信長の天下布武への道筋そのものともいえます。

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那古野城

始まりの城

織田家の元々の領地は尾張東部で、信長が最初に居城としたのは那古野城でした。これは今の名古屋城の二の丸だったとされ、父の信秀が今川氏から奪い取った城です。信長は1534年にここで生まれ、普通の大名ならばここで一生を過ごすことになりますが、ご存知の通り信長は一箇所に収まる器ではありませんでした。

家督戦争に勝利した信長は長男ではなかった

織田家の信長もその一人でしたが、簡単に父親の後を継いだ、、とは行かず、13人の兄弟たちとの争いがありました。古来から、長男が家督を継ぐ文化があった日本で、信長は三男として生まれました。

三男の信長が家督を継げた理由

信長は三男でしたが、上の長男と次男は、実は側室が生んだ子供で、信長は正室が生んだ最初の子供だったのです。織田家では、生まれた順番よりも、母の血統が重視されたため、信長が嫡男として育てられました。

ライバルは弟

父の死後、家督争いのライバルになったのは、同じ正室の子である弟の信行でした。家臣の中には信行を支持する者が多かったのですが、結果的に信長は信行を暗殺し、家督の座を継ぎました。

正室の長男だからと言って、それだけでは必ず家督を継げる訳ではなかったようです。歴史も「もし」はありませんが、あえて、もし織田家を継いだのが信長ではなく信行だったならば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。

清洲城

青年期

1555年、清洲城に本拠地を移し、10年間で尾張を統一、隣国の美濃へ攻め入る1563年までを過ごしました。

小牧山城〜岐阜城

城下町の形成

その後に移った小牧山城は、新しく平野部の小山に築かれた城でした。それに伴い城下町が建設され、信長や家臣たち、商人や職人たちも清洲から移ってきました。

難攻不落の城

小牧山城を本拠地として、美濃の斎藤氏を攻めましたが、美濃の稲葉山城は難攻不落の城として知られており、かなり攻めあぐんでいました。1567年に落城させると、その稲葉山城を居城として、岐阜城と名を改めました。

安土城

そして最後の居城が、ご存知の安土城です。7年かけて琵琶湖の湖畔に、1576年に完成しました。

5箇所の居城を転々とした信長には、新たに奪い取った城を居城とし、次なる場所への最前線として使うためだったのです。堀江貴文氏の『多動力』という本が話題になっていますが、信長もまさに多動力を備えた、活動的な人間だったのではと、想像ができます!(^ ^)

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