「お嬢様」な篤姫だが 実はかなりの床上手だった!

人物

「女だらけの領域」大奥での生活ぶり

 

篤姫の年表

  • 1836 薩摩(現在の鹿児島県)に生まれる
  • 1853 島津斉彬の養女となる
  • 1856 近衛忠熙の養女となり大奥に入る
  • 1853 夫・家定が急死
  • 1862 家茂の正室として和宮が大奥へ(この和宮と はのちに和解するも大変険悪な仲だった) 戊辰戦争で徳川将軍家 は存亡の危機に 江戸城大奥が解散、篤 姫は一橋邸へ 新政府に従三位の位階を剥奪される
  • 1883 死去

大奥入りの前のお姫様教育

8年のNHK大河ドラマ『篤姫』で主人公として描かれ、大いに注目を浴びた天璋院篤姫。彼女の暮らしぶりはいかがなものだったのだろう。

薩摩藩主・島津斉彬の養女となった篤姫はいずれ御台所になるという立場から、輿入れ前に薩摩の鶴丸城で徹底的にお姫様教育を受けたといわれている。

篤姫はそこで島津家そして徳川家の歴史をはじめ、大奥でのしきたりや行儀作法を学んだ。しかし、そこでの生活はトイレに行くにも女中があとをついてくるなどとても自由と呼べるものではなく、篤姫にとっては大変厳しい毎日だったという。

世継ぎのため…教え込まれた性教育

tazaki
tazaki

春画(枕絵)には色々あったらしい。けっこうリアル(笑)

厳しい教育は「性教育」でも同じだった。篤姫には「世継ぎをもうける」という重要な役割があったのだ。男女の秘戯(=性行為)を描いた枕絵を使い、 彼女は徹底した性教育を受けたという。

しかし、実際に篤姫が送り込まれた将軍・家定は性的不能だったため子を作ることはできなかった。もし、それを周囲が知っていて子作りが難しい家定との間に世継ぎを儲けろと篤姫を送り込んだのであれば、なんともむごい話である。

だが当時は親の言うことは絶対。いずれ大奥へ入ることへの心がまえということもあり、篤姫は大奥教育に対して決して弱音を吐くことはなかったという。それでは大奥に入ったあとの生活はどうだったのだろうか。

大奥での1日の生活

彼女の生活はだいたい朝7時頃の起床からはじまったというが、彼女は係の者に起こされる前にはかならず自分で起きていたという。

また、起床後には欠かさず朝湯に入っていた。当時は1日おきに入浴することが当たり前だったので、篤姫のように毎日風呂に入るというのはかなり珍しかったようである。さらに、篤姫は1日に5回も着替えをしていたというから、彼女が相当なキレイ好きだったことが窺える。

 

篤姫の持つ強い精神力

しかし、篤姫は大奥で自由気ままな生活を送れていたわけではない。

大奥には厳しいしきたりに加え「女だけの領域」というだけあって嫁姑間の確執や奥女中のいじめなど、違った意味での厳しさもあった。

それでも彼女が大奥での生活を生き抜けたのは、輿入り前の徹底した教育に加え、何よりも彼女自身に芯の強さが あったからだといえるだろう。

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