武士の労働環境(給料、失業、転職、派遣)のまとめ

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武士たちの労働環境はなかなか過酷だった

武士という職業は、社長(幕府や大名、藩)から給料(家禄や職録)をもらうサラリーマンのような給料体系でした。そして、失業(改易や転封)もあれば、転職もありました。派遣業まであったくらいですので、本当に現代とシステムは似ていると思います。職業として見た「武士」のあらゆる側面を切り取ります。

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武士の給料

戦国時代、武士だって一つの職業で、それで食べていっていたわけですよね。では武士という職業はどのくらい稼げていたのでしょうか?その謎に迫ります。

家禄

武士は今のサラリーマンのようなもので、社長(幕府や大名)から基本給(家禄)を与えられていました。違う点は、この家禄は家に対して与えられています。ご先祖様の功績により、家に与えられるのですね。今とは違います。こんなところにも、「家」というくくりの強さが現代とは異なることがわかりますね。家禄にはいくつかの体制があります。

知行取り

知行取りは主に旗本に対して、領地(石高)の形で与えられました。そこから年貢による収入を得ます。年貢収入にも税率が存在します。これがよく聞く「四公六民」や「五公五民」ですね。500石の領地で四公六民として200石が取り分、300石が農民の取り分になります。

蔵米取り

知行地を持たない御家人に対して、玄米を支給される形で与えられました。支給方法は「切米取り」「現米取り」「扶持米取り」に分かれています。

切米取り

切米は、2月に25%、5月に25%、10月に残りの50%を与えられました。単位は俵です。

現米取り

切米100俵=35石という割合になります。ですので、500俵は現米175石取りと同等になります。

扶持米取り

主に下級武士に与えられました。「50俵2人扶持」という形で与えられます。「1人扶持」は、男は1日5合、女は3合の計算で、毎月支給されます。扶養手当という感じですね。
家族や部下の人数に応じて与えられました。1人扶持=1石です。

給金制度

金銭を支給される武士もいました。一番低い身分だと、年収が3両1分ほどです。今でいう25万円ほどです。これに由来して、貧乏侍のことを「三一侍(さんぴんざむらい)」と言います。

職禄

家禄とは、ご先祖様の功績より家に与えられる給料でした。ご先祖様が活躍した人だったら今の当時の人にとっては有難い話ですが、ではご先祖様よりも自分の方がより功績が高かったらそれしかもらえないのかというと、大丈夫です。それ以上に功績をあげていれば、職録という職務加算給がもらえました。役職に対して家禄が足りない場合に支給されていました。

現金支給

職禄は、米で支給されたり、現金で支給されたりまちまちだったため、老中以下は現金で支給されることになりました。幕末には市場経済が発達してきており、米で支給されていても商人に現金化してもらっていた実際があるので、実際に合わせた形になっています。

武士の失業

武士の中には、失業(改易)や転職をする武士もいました。今も昔も変わらない何が起こるか分からない運命をまとめました。

いわば藩は武士にとって仕事を与えてくれる会社です。大名が社長です。では何らかの原因で会社が倒産(藩が改易など)したら武士は万事休すなのでしょうか。

改易と減封(げんぽう)について

江戸時代、大名が改易させられると、城と領地は没収、大名は斬首や切腹になる場合もありました。もちろん家臣や武士たちも領地がなくなってしまいます。つまり、浪人です。後継がいない無嗣断絶も改易の対象でした。

減封も武家諸法度に違反した罰の一つです。武士の身分が剥奪され、領地や城が大幅に削減されます。後継がいない場合も減封の対象になります。

実際にあった改易、減封、加増

関ヶ原の戦い(1600/慶長6年)

関ヶ原の戦いでは、、主な功績、罰則を受けたものたちをまとめました。敗れた西軍に加担した88の大名家が改易されました。毛利家や上杉家などの5大名家も大幅な減封を受けています。

西軍の改易・減封・戦死・流罪・死罪

石田三成:西軍総大将。20万石→改易。斬首。
毛利輝元:西軍総大将。安芸広島112万石→30万石に減封。
宇喜多秀家:西軍副将。備前岡山57万石。1606年に八丈島に流罪。
上杉景勝:陸奥会津120万石→30万石に減封。
長宗我部盛親:土佐浦戸22万石→改易。斬首。
毛利秀元:周防山口20万石→長門府中5万石
大谷吉継:越前敦賀5万石→戦死。

東軍加担、及び寝返りによる加増

徳川家康:東軍総大将。256万石→400万石(全国各地)
井伊直政:上野高崎12万石→近江彦根18万石
黒田長政:豊前中津18万石→筑前名島52万石
福島正則:尾張清洲20万石→安芸広島50万石
松平忠吉:家康四男。武蔵10万石→尾張清洲52万石
山内一豊:遠江掛川6万石→土佐浦戸22万石
小早川秀秋:東軍勝利の決定打の寝返り。筑前名島35万石→備前岡山51万石(しかし2年後に21歳で急死し、後継がいないために改易。死因は、アルコール依存症による内臓疾患が有力な説です。)

武士の転職

改易になった藩の武士たちが、武士として再就職するのは大変難しいことでした。武士たちは農業や商業など様々な職に就職したと言います。

農業や商業、それ以外の才能を発揮する者も

最も多かったのは農家としての道です。この時代に新田の開発が進んだのは、多くの武士出身者が農民になったためです。
商人になる者もいれば、学術で稼ぐ者もいました。寺子屋で読み書きを教えたり、剣術道場、学問に強いものは儒学や兵学者になりました。学も芸もない者は、楊枝削り、傘張りなどの内職仕事をして働きました。他には博徒の用心棒として働く者もいました。

幕府に再就職する者も

三代将軍家光の弟である駿河大納言徳川忠長の家臣、柳沢安吉は、忠長が改易にあった後、例に漏れず浪人になりました。しかしその後幕府から再度声がかかり、430俵取りの旗本にまで上り詰め、武士として再度成功しました。柳沢家は存続し、子の吉次も徳川家綱付きの小十人(将軍の護衛役)となりました。その後も代々勤仕を続けたようです。
新井白石も一時は浪人でした。しかし、儒学者としての才能を認められ幕府に再雇用されています。

起業家も?

自分の仕事、給料を保証してくれて藩がなくなる。普通ならビビります。焦ります。でも、むしろ自分から脱藩する大物(坂本龍馬、、、吉田松陰、、、高杉晋作etc)もいたんですね。今でいうと、会社に守られた世界から脱サラして、起業するみたいな感じだったんですかね〜。
坂本龍馬は日本初の株式会社を作りましたし、吉田松陰は私塾を開きました。時代の先取りをする人間たちは、やはり藩という枠を飛び越えて自分の志を実現させるようです。

江戸時代の人材派遣業

武士たちは大名から家禄や職禄をもらって働く、今でいうサラリーマンのようなものだということを見てきました。そしてお供(部下)を持つ旗本や御家人ともなれば、部下の給料を払っていかなければなりません。

なぜ派遣業が必要になったのか?

御家人や旗本は中間(ちゅうげん)や小者と呼ばれるお供がいました。仕事内容は、槍持、草履取、挟箱持、口取、陸尺などです。100石取りなら、槍持1名、草履取1名、挟箱1名と決められていました。

彼らの給料は年に3両ほどですが、貧乏な旗本や御家人にとっては厳しい額でした。しかし雇わなければいざ人手が必要な行事の時に困ります。そこで派遣業社が現れました。

そこに目をつけた「口入れ」「けんあい」「他人宿」

必要な時だけ、口入れ、けんあい、他人宿という斡旋業者がパートとして派遣します。契約期間が1年や半年などと定められています。

町人たちもこの期間は武士の端くれとして働いた

日雇いで中間、小者に雇われるのは、町人が多かったと言います。その日は町人でも刀を持つことが許され、武士として仕事をこなしました。

中間管理職はいつの時代も大変

いつの時代も、上も下も見なければいけない中間管理職には悩みは多いのもです。そこでいい具合にビジネスを展開する人が江戸時代にもいたんですね。

町人でもその日だけは帯刀できることに驚きです。士農工商がはっきりしているようなイメージを持ちがちですからね。

まとめ

武士の就職事情、いかがだったでしょうか?給料もすごくもらっている人もいれば、一般人並みの武士もいたようです。

そして、武士の世界でも平和な時代を過ごすものもいれば、戦乱時代を過ごす者もいます。それに一生武士として食っていける保証などありませんので、改易や転封もあります。

武士時代に学んだ学芸のおかげで転職し、食いっぱぐれなかった人もいれば、武士の経験を活かして用心棒になる人もいました。

そして町人が武士になれる派遣制度など、意外と柔軟性あったんですね、江戸時代。。。

武士と言ってもただ戦ってばかりじゃなく、武士道精神を持っていた命を懸けて戦った日本のサムライたちはカッコ良いですよね。

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コメント

  1. 立花正親 より:

    私の祖先も改易にあい現在の福岡県大牟田市から福島県に蟄居され藩主と共に現在の福島県に移り住みました。三代にわたり福島県で過ごし幕府からお許しがでて元の大牟田市に一万石で大名に復帰しました。私の祖先も現大牟田市三池藩に戻りとあります。

    • tazaki より:

      立花正親さん
      コメントありがとうございます!
      もしかして、立花宗茂の子孫の方ですか?間違っていたらすみません(^_^;)汗

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