土佐藩脱藩後の中岡慎太郎は長州藩のスパイ役

中岡新太郎は長州のために奔走しまくっていた

土佐藩を脱藩した中岡慎太郎は、あらゆる場所で情報収集をして走り回っていました。それもそのはず、脱藩志士を受け入れてくれる長州藩にはモノを言える立場ではありません。それだけ、脱藩というのは覚悟のいる行為だったのです。

中岡は大忙しだった

八月十八日の政変後、全国の諸大名が、自藩の尊皇攘夷志士を弾圧し始めたのに対して、長州藩だけは、尊皇攘夷を唱え続けました。そのため、自藩を追われた志士たちは長州藩を目指すようになったのです。

中岡慎太郎もその一人でした。彼は土佐藩を脱藩し、長州に逃れてきた一人です。中岡慎太郎を受け入れた長州は、彼を京都などの各地に情勢探索、つまりはスパイ活動させるために潜伏させたのです。

移動ルート

中岡慎太郎はまず、1864 年 月に京都へ渡ります。そこで高杉晋作に会い、島津久光暗殺を画策するも、果たせず5月に長州へ帰藩しました。

7月には禁門の変があり、彼は脱藩志士らをまとめて京都で戦うが、破れてまた長州へ戻ります。8月もまた京都へ向かい、10月に帰藩。すぐさま今度は鳥取へ向かい、11月にまた戻ります。このように、中岡慎太郎は休む暇なく長州と諸藩を行ったり来たりしていました。

脱藩志士にとって受け入れてくれる長州は貴重だった

このような過酷な任務を遂行していた中岡慎太郎ですが、自藩を抜け出して脱藩罪を問われている彼にとっては罪が許されるまでの期間、自分を庇護してくれる長州には物を言えるような立場ではなかったのです。

それは、中岡慎太郎だけでなく他の浪人も同じです。しかし、中岡のような優秀な人物は特に大忙しだったと思われます。長州が他藩の尊王攘夷派を受け入れた理由は、脱藩した彼らのそんな立場をうまく利用してやろうという思いがあったのかもしれませんね。

脱藩のリスク

脱藩した勤王志士というと、カッコいいイメージもしますが、藩という組織から外れるというのは、当然それだけの大きなリスクもあったわけです。今で言えば、密航して、日本を飛び出すというイメージでしょうか。

藩というのは治外法権です。幕府と言えども、諸藩の法には口出しできなかったことから、江戸時代の日本は完全な中央集権国家ではなかったとも言えます。

なので、国(藩)に守られなくなるリスクを犯してまでも、多くの武士が脱藩していたのですから、相当、日本全体が不安定だったことが想像できますね。

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